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その時の自分も自分の判断も尊重したいという話。

ここ数年で世の中が変わった。行き過ぎた理不尽に対してきちんとノーを突き付けていいんだという感覚が、やっと共有され始めたとでも言うのだろうか。でも、世の中が変わったからといって、その当時理不尽に耐えることが精いっぱいだった自分を「なんであの時抵抗しなかったんだよ」と、今の価値観で責めるべきではない。最近、それにやっと気づけた。

ここ数年、嫌でも「どうしてあの時きちんと言い返せなかったんだろう」「どうしてきちんと怒らなかったんだろう」と、過去の自分に対して思い悩むことが多かった。時代が変わった、価値観も変わった、自分だって変わっている。だからこそ、今の自分の尺度で過去の自分や自分を傷つけた人たちに、改めて憤ってしまうのは百歩譲って自然な感情だ。だけど、その時その時でベストなのかどうかは永遠にわからないとはいえ、必死に自分なりの選択をしてきたことまで、自分自身が全部否定してどうするんだと。おい私「自分だけは自分を認めてあげないと、誰からも認められることなんかない」って、ガムシャラに生きてきたんじゃなかったのかよ。余裕なくして初歩の初歩すっ飛ばしてる自分、最高にだせえよと。

自分を再構成せねばならぬ。取り戻すのではなく、再構築と再構成。そう思ってこの数年間、いろんなことにチャレンジしてきた。その途中で例のウイルスがやってきて、色々全部どんがらがっしゃんしそうにはなったのは言うまでもないから触れないけれど、結局世の中がどうなろうと、自分は自分でしかない。それを改めて自覚できただけでも、自分にとっては必要な期間だった。まあ、このレベルのものは二度と味わいたくないけれど。

もうひとつ、自分の心の深い場所にメスを入れようと思ったのは、大好きなバンド、DaizyStripperの影響もある。彼らの音楽を聴いたり、ライブに行くことはいつだって楽しい。でもある時、彼らの持つ光に自分が気圧されている状態で現場に行くことに、漠然と「かっこわりーな」と思ってしまったのだ。常にあの強烈な光と対等にやりあえる自分でいたいというのが、トレゾア(彼らのファンの呼称)としての自分の原点だったので、この数年でどれだけ大切なものを見失っていたのかと思うと、なんとも情けない。逆に、そのレベルで追い込まれている状態のまま数年が経過していたことに、私自身がまったく気づいていなかったのだ。おい、Reiさんの「仕事でも勉強でもそうだけど、苦手だとかやりたくないってことでもまずやってみて。それで何かつかめるかもしれないから。とにかく、やれ」に感銘を受けた四年前の自分どこいった。それがあったから色々試行錯誤を繰り返してきたんじゃないのか。なんなら風弥さんのように堂々とディープな地元トークができるレベルで、愛を持って好きなものを好きって言いたいって思った自分もどこいったと。

冒頭の話に戻ろう。ここ数年の私の苦しみは「どうしてあの時きちんと抵抗しなかったんだ」と、今の価値観で昔の自分を徹底的に責めてしまったことにある。物事には当事者にしか見えない、言語化できない「何か」があって、それを汲んであげられるのは極論当事者である自分自身だけだ。なのに、当事者であるはずの私がその部分を完全に見落としていたのだから、もうカレーのライスを炊き忘れたぐらいに本末転倒な話である。それに気づいたとき、ここ数年の自分が変なところで遠慮がちになっていた理由はこれかと。なんというか、長年部屋の中で行方不明になっていたアクセサリーを、ひょんなことから見つけた時のような、なんとも言えない気分になったけれど、まあ見つかったからいいかと前向きにとらえることができるぐらいに、今の私は前を向く姿勢を取り戻しているのだろう。

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今年もライブ納めは、Reiさんのバースデーライブ。実は、この日までにいろいろ一段落させたいというか、理由はどうあれきちんと胸を張ってライブに参戦したいという目標を立てていて、それをなんとか達成することができた。撮影会でReiさんに「おかげで吹っ切れました。明日からまた頑張れそうです」と言ったら「よかった!」と最高の笑顔を向けられ、ボーカルの夕霧さんには満面の笑顔で拍手をもらった。なんと素敵な時間。以前、DaizyStripperに対して「命を救ってもらった恩は生きることでしか返せない」と思っていたけれど、そこにもう一つ「自分に嘘をつかなくてもいいと教えてくれた恩も、自分が自分と誠実に向き合って生きることでしか返せない」が追加された気がするので、これからもちゃんと自分を大事に生きていこう。そう決意した2021年の終わりである。

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