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トラアスロンの日々 (ランニング編)アイアンマンよりキツい富士登山競走を走った思い出

練習時間の捻出
1984年からトライアスロンの練習を始めていた。まだ練習方法は暗中模索状態、一部の雑誌か、仲間内から情報を集めるしかなかった。だた、どれも膨大な時間を要する。
少し途方に暮れたが、最悪会社を辞めてもいい。そんな気持ちだった。

この時代、まだバブル前で、フレックスタイムもない、タイムカードでの出退勤。パソコンもデカいのが課に1台程度で、Basicが動いていた。
業務は設計で手書きだ。
残業は休出なしで、最低でも40時間はあった。この状況で入社3年目の私。
「どうする私?」

まず練習時間が決まっているスイムのマスターコース、時間は午後7時半から9時までだ。
週に2回ほど早めに退社、空腹のまま9時まで泳ぎ、その後、スイム仲間と食事をした。大体ビールを飲んでいた。昔の体育会系の部活みたいで楽しい時間だった。馬鹿話をしながら過ごしていた。帰宅は11時を過ぎる。
翌朝は、府中の工場勤務だったので、8時には出社する。若かったので楽勝だった。

土日は自転車の練習と長距離ランをする。アイアンマンレース向けの長時間の運動を試みていた。競技時間が10時間を越える競技だったので、食べながら練習を続ける。

アイアンマンレース
1981年にハワイでアイアンマン・トライアスロンは本格的に始まった。
スイム3.8km、バイク180.2km、ラン42.2kmの合計距離約226kmで行われる。日本では1986年から琵琶湖で開催された。
私は1987年から1991年まで4年連続で出場、全て完走した。

ランニングの練習
さて、ランニングは距離を走り込む練習が必要となる。
時間的には昼休みの50分しかない。
この当時は、仕事がら椅子に座り放しだったので疲労はない。昼休みに走ることにした。
当時勤めていた工場は敷地が広大だった。工場以外にもラグビー場や野球場、プールまである。
工場の周回で1周5キロ程度は簡単に取れる。そこを走った。
工場にはラグビー、野球などの実業団チーム以外にも、陸上部、スキー部、趣味の野球部、サッカー部とスポーツクラブは腐るほどあった。
その人間達が昼に走っていた。
当然、競争となる。トライアスロンは1キロ3分台で走る必要は無いが、やるしかない。

運動会があった
年に一度、駅伝とマラソン大会が工場内であった。今は流石になくなっただろう。
この頃、参加者も沢山いて競技が成り立っていた。駅伝など工場ラインごとにライバル意識丸出しで競争していた。全く当時のメーカは恐ろしい。
私も1度だけマラソン大会に出た。
昼休み時間を30分延長して開催された。距離は5キロだ。
陸上部は出てこないので、17分台の勝負となる。私は普段よりペースを速めて走った。ラスト500mまで2位を走っていた。しかしゴール前のダッシュについて行けない。趣味の野球部、スキー部にまくられて6位だった。
その時、目にとまったのだろう。スキー部の男に声をかけられた。
「俺たちさぁ、毎年富士登山競走にエントリーしているが、一緒に出ないか?」
「富士登山競走??」
「走って登る?」
「富士山って何メートル?」まあいいや、
「ハイ、出ます」と返事をした。
この時、私はフルマラソンを1回完走した程度の男だ。
つまり富士登山競走の厳しさを全く理解していなかった。

1985年夏 
7月28日に富士登山競争は開催される。
その日が平日でもその日に開催される。おそらく晴天率から選んでいるのだろう。
天候が荒れれば、今思えば死人が出る可能性もあった。また年齢制限があり45才以上は走れない。
後、今回初めて女子の部が出来た。

富士登山競争
標高770mの富士吉田市役所前がスタート。北口本宮冨士浅間神社から吉田口登山道を通り、標高3,711mの富士山頂久須志神社までの山頂コースは距離は21kmある。3000mを一気に登る。

富士登山競走コース平面図

山頂コースの制限時間は4時間30分で、2008年大会までは完走率が50%を割ることが多かった。
その後、参加基準が厳しくなり、完走率は上がったが、キツいことは変わりない。

前日受付だが、スキー部の人間に代わりに受付をしてもらって、当日午前2時に起き、調布インターから愛車のダットサントラックで富士吉田に向かった。
「眠いぞ」

地獄の厳しさ
朝6時半にスタートして、富士山5合目、足きりは2時間15分、2時間を切って通過した。ここまでは何となく走れる。
コースを見上げて、一般登山者を見る。場違いだ。
「ここからは登山だろう」
私はランパン、ランシャツ(長袖)姿で登山をすることにした。

7合目からは早歩きも出来ない。高度を上げる度に歩く速度が落ちる。
「8合目は幾つあるんだよ」愚痴る。
霧を抜けると凄い景色が目に飛び込んできた。
「山中湖があんなに小さい」

本当の8合目 足きり時間は4時間0分、3時間50分で通過。
完走制限時間は4時間30分だ。地獄の苦しみも後30分だ。
酸素が薄い。身体が動かない。心拍数が上がる。身体はゾンビ状態となり、4時間19分でフィニッシュした。

「寒いぞ」それはそうだ。天候は安定しているが、頂上の温度は7度だった。
「ゴールしても寒いし、酸素薄いし、辛いぞ」
ハンガーノック状態だったので、800円のうどんを食べた。
人心地して時計をみると午後1時近くになっていた。
「やばいぞ、遅れる」

バスの待つ、5合目まで火山灰のコースを走る。靴の中に軽石が入り、痛い。マメもつぶれたようだ。
転んでしまい、膝から血が滲んでいる。前走者が舞上げる砂煙。それでも走る。でないと3時に最終バスが出てしまう。
「情け容赦なしの競技だなぁ」
ようやく顔を埃で真っ黒にして到着。
「目が痛いぞ」

そして、帰りの中央高速で運転中に一瞬意識が飛んだ。
「危なかった!」危うく中央分離帯の壁にぶつかるところだった。
「休もう」
パーキングに入って暫く寝た。
深夜過ぎに無事帰宅した。

アイアンマンのランパート
この荒行事で、初参加のアイアンマン琵琶湖のランは頑張れた。
富士登山競走に比べたら、何時でも水は飲めるし補給食もある。フィニッシュした後、下山もしない、埃も舞ってない、直ぐに、
「ビール頂戴」と言える。

初めてのアイアンマン、ランで激走する

入社5年目で転勤となる。仕事をあまりしないので事業部を追い出された。
都心の五反田の方へ飛ばされた。
五反田でも昼に走り続けたが、その時には相棒がいた。
だんだん、頭のおかしい連中が増えてきている。バブル前の元気な日本だった。



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