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北ウェールズへの旅-その1:カナーヴォン

数週間、仕事に忙殺され、家からほとんど出ることもなく時間が過ぎていた。

朝、コーヒーを淹れる間につけるテレビには、爆撃される市街地と、母国を捨て家族と離別しなくてはならないひとたちがずっと映し出されている。

早朝からの会議に、散歩もできず、
週末になにかを書こう、と思い、手をつけては集中することができず、放り出すことが続いた。

にんげん、疲れると本が読めなくなる。
さらに疲れると、疲れているんだと訴えることに疲れてしまう。

2月25日の朝。私はロンドンユーストンの駅で、大きな列車時刻の掲示板の前に立っていた。

前年取り損ねた休暇は、5日だけは翌年の3月末まで持ちこせることになっている。
去年取れなかったのは7日。すでに2日失っていたし、このままいくと5日もそのまま消失しそうだったので、ええいとまとめて取ることにした。

が、その数日前、予想もしなかった仕事のトラブルが起こった。
いろんな部門が自分に連絡してくるので打ち返すだけで時間が過ぎてしまう。

こんなバタバタの状況で無理に休んだところで、仕事が気になってしまい休まらないんじゃないか。
いっそ仕事したほうが精神的に楽なんじゃないか。
休暇を取り消そうか思い悩んだ。

「そんなときこそ、休んできちんとリフレッシュしなくっちゃ」とヨーロッパ人たちはみんないう。まあ、私も同じ立場ならそういうだろう。

結局、予約のためにメッセージのやり取りをしていたB&Bとレストランのことを考えて、出発することにしたのだ。

とはいえ、カバンにはいちおう会社のパソコンをしのばせて。

ロンドンはいくつものターミナル駅からできている。

キングスクロス駅からはまっすぐ北へ。
ウォータルー駅からはまっすぐ西へ。
ヴィクトリア駅からはまっすぐ南と、そして東へ。
そしてユーストン駅からは北西、バーミンガムやリバプール、マンチェスターに向かう列車が走っている。

国内旅行なんて久しぶりだ。
コロナがなければ、こんな金月休みした長い週末には、フランスやスペインにいって美味しいものを食べようと思っていただろう。

でも、今回の旅は、
すこしでも自分が住む国の観光産業にお金を落とそうかな。
もっとこの国を観て回ったほうがいいんじゃないのかな。
そんな思いがあって、北ウェールズにある「スノードニア国立公園」をたずねることにした。

私がイギリスに転勤者むけ労働ビザとともに移り住んだのは2009年のこと。
3年後にビザを延長し、そこからさらに2年後、永住権の申請をした。

イギリスの永住権の申請をするためには、いわゆる一般的な書類のほかに、英語力の証明と「Life in the UK」というテストに合格しなくてはならない。

これは、イギリスの歴史や一般知識を包括したテストで、150ページほどある「公認テキスト」を読み込み、公式テスト会場で24問の二択もしくは四択問題に答える。
たとえば、イギリスのゴールドメダリストは誰か、といった問題から、ヘンリー八世の妻の名前はなにか(しかも6人もいるし)、80年代に流行った有名なテレビ番組の名前や、イギリスの各国の守護聖人は誰かといったものまで。
75%正解すれば合格だが、とにかく内容が広範なので、当時、かなり集中して試験勉強した。

その中に、イギリスの国立公園という項目があり、私の脳に焼きついたのが「スノードニア国立公園」だった。
なぜか。
それは、
その中心にあるスノードンという山が標高1,085mだから、
ではなく、
「スコットランドを除いたイングランド・ウェールズでいちばん高い山」と説明されていたからだ。

イギリスの正式名称は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)」だ。
だからこそ、テストも「連合王国の生活」について学ぶという体裁をとっている。
が、歴史的経緯からか、あるいはそのころ活発だったスコットランドの独立運動などもあってか、テキストの内容は、イングランドと、そのイングランドに早くに併合されたウェールズに偏っていた。

普通だったら「この国でいちばん高い山」が書かれていそうなのに、スコットランドにあるベンネヴィスをわざわざ除くための言い訳めいた注釈をつけてまで、スノードン推しなことがすこし面白かった。

もうひとつ印象に残った理由。
それはスノードニアという名前が雪の被った稜線を思い起こさせ、テキストに載っていた小さな山の写真が、日本を思い出させたからだ。

そうだ、あのスノードニアに行ってみよう。

旅行のプランをし始めた。
そう思ってみると、自分が住む国のいろんなこと(なんという鉄道会社がどの都市に走っているのか、鉄道のチケットはどうやって買うのが安いのか)を知らなかった。
いつもヨーロッパのほかの国に目がいってしまっていたのかもしれない。

これまでトレーシーの出身地ということもあって南ウェールズには何度もいっていた。けれど、そんな親しみのある南ウェールズと、今回訪ねる北ウェールズは、いろんな意味で隔絶しているということに気づいた。
同じウェールズでも、アクセスするのは首都カーディフからではなかった。チェスター、リバプールといったイングランドの主要都市からのほうがアクセスが早いのだ。

イングランドからの流入が多く、かつて石炭の産地として発展した南ウェールズに対し、古跡がそこここに残り、いまだにウェールズ語の話者が多い北ウェールズとの隔絶は、こうした地勢もあるのだろう。

「高校生の時だったかなあ、コーラスの大会で北ウェールズに行ったときに、北からの参加者にウエールズ語で『言葉も分からないやつはイングランドに行け』っていわれたのよねえ。私がウェールズ語が分かると思わなかったんだろうけどね、同じウェールズ人なのにって思うと、ちょっと悲しかったな」

カーディフ出身のトレーシーは、両親の意向もあって、小学校からウェールズ語学校に通ったので、英語もウェールズ語も母国語として話す。
でも、イングランドの影響が強い南ウェールズではそれはとてもめずらしいことだ。

「北だとウェールズ語を話す人が多いから、看板もウェールズ語が多いし、もっとエキゾチックに感じるわよ。私が教えたウェールズ語が役に立つときが来たわね!楽しんできてね」

ロンドンからまずはチェスターまで。
もっと速い特急もあるが、あえてすこしゆっくりの急行電車を選び、テーブルのある席に水筒に入れたルイボス茶と数日前に焼いたレモンケーキをおいた。

車窓には緑のまっすぐな地平線。典型的なイギリスの郊外。真っ青な空を観ていたら、仕事のことは思い浮かぶものの、やっぱり思い切って来てよかったという気持ちになってきた。

女性の車掌さんが、チケットを確認にやってきた。
終点だから、そこからまたホームの画面で乗り換えホームを確認してね、とにっこり。
仕事関係でなく、電話会議の画面越しでなく、こうやって誰かと話すことのありがたみを感じる。
在宅勤務は便利ではあるけれど、なんだかどんどん世界を小さく縮めている気もするから、この週末は、織り込んでいた羽根をぎこちなくもう一度動かし始め、広げてみるような気持ちだ。

終点のクレウェという駅で、その名も「Train for Wales(ウェールズへの列車)」という2両編成のディーゼル機関車に乗り換えた。

たった一駅しかないその路線をグワーッというディーゼルの轟音を響かせてのんびりと列車は進む。
そして到着したのがチケットの最終目的地、チェスターだ。
ここは最終日に立ち寄るので、まずはまっすぐレンタカーを受け取り、いよいよウェールズへ。

最初に立ち寄ったのはPontcysyllte Aqueduct(ポントカサステ アクアダクトと読む)という世界遺産の水路橋だ。
1805年に完成した英国でもっとも長く、そしてもっとも高いところに渡された運河橋。
ここも、昔、友達が写真を見せてくれて、いつか自分の目で見てみたいと思っていたところだ。

平らかに広がる緑の丘と青空が気持ちいい。
目の前のパソコンばかり見ていた自分の目が、ひさしぶりにピントを無限大にした感じ。

ふとトイレに行きたくなったので、休憩を兼ねて、途中のガソリンスタンドに併設したコーヒー屋にたちよった。
と、ドアを開けた瞬間、白人しか、そしておそらく近隣住人しかいない店内の目が自分に注がれた。

うわ、こんな感覚、90年代のミネソタ以来かも。

でも、その目線に含まれているのは排他的な感情や嫌悪感ではなく、いい意味での好奇心。
おや、見たことない人がいるね。

カウンターでMサイズのモカを頼んで、できあがるまでの間、その前に並んでいたおばあちゃん(孫がどうしてもマンゴーなんとかっていうのを欲しがるから、ときどきくるのよ。こんなに寒いのにね。あなたは遠くからいらしたの?)とおしゃべりをする。

そうそう、こういうのが「旅をする」ってことだったっけ。

素敵な風景があれば、ハザードをだして路肩に寄せる。
急いだり、なにかのために間に合わせなきゃいけないことなんて、この旅程にはないから。

そして、すこし雲が重くなり始めたな、というところで、眼前に久しぶりに見る山らしい山の姿が。
スノードンを中心にしたスノードニア国立公園がいよいよ近づいてきたことがわかる。

思わず写真に収めたくなり、道路わきの施設の玄関先にささっと車を停め、ドアを開けた。
と、施設の中から、間髪開けずに深緑色の服装をした男性が勢いよく出てきた。
んん?

そのとき、ふと正面に立つ看板の英語が、情報として目にはいってきた。「Ministry of Defence」
おっと、それはどうやら防衛庁の施設だったらしい。
そりゃそんなところに勢いよくガイジンの運転する車が入り込んで来たら、すわ何事か、と思うのは当然だ。
軽く手を挙げて、害がない人間であることを、向かってくる人影に伝え、慌てて車を発進させた。

なにしろ、4-5年前、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの首都サラエボにいったとき、うっかり道路から空港の写真を撮り警察に囲まれて、写真を消すように迫られたことがある。

ちょっとドキドキ。

そこから、道はどんどんと山へ近づいていき、
美しい湖面に照り返す光にいざなわれ、

そして、見晴台へと到着した。

夏であれば、ハイキングとして往復5-6時間ほど、また蒸気機関車の登山鉄道がスノードン山頂へ走ってもいる。
しかし、旅したのは2月の終わりのこと。
残念ながら4月までは機関車は運休だ。

冬季であっても登ることは可能らしいが、地形的に氷結するところがいくつもあり、かなりの難関に変貌するというので、ハイキングは諦めた。

この日も、ヘリコプターが山頂付近を飛び交っていたので、もしかすると救難活動だったのかもしれない。

なにかに間に合わせ急ぐ旅ではないけれど、
一つだけ間に合わせたいものがあった。

それは、Caernarfon(カナーヴォン)の町でみる夕焼けだ。

険しく狭い山道を走りおり、城壁に囲まれた旧市街にレンタカーを停め、B&Bにチェックインする前に、小走りで港にでた。

ふう、夕焼けに間に合った。

そして、港に面したパブで、その名もスノードニアエールを一パイント。
値段はなんと3.90ポンドだった。
ロンドンでは5ポンドを越えることが当たり前だというのに、なんとお財布に優しいことか。

夕焼けを眺めつつ、水平線を眺めつつ、ゆっくりとエールを楽しみ、そして、B&Bにチェックイン。

旧市街の城壁に接して建つそのB&Bは、天井が高くクラシックな風情でひろびろ。

靴を脱いでしばしリラックスしたあと、身支度を整えて夕飯へむかうことにした。

予約しておいたのは、「Sheeps and Leeks(羊と長ネギ)」という名のレストラン。
羊も長ネギもどちらもウェールズの特産品だ。

特に長ネギは水仙とならんでウェールズを象徴する植物。
ウェールズの守護聖人デービッドの祝日には、ウェールズ連隊の兵士たちはネギを帽子に着ける。

Sheepは本当は複数形にならない単語なので、文法的には正しくないけれど、もうひとつのLeeksと韻を踏むためにわかっていてsをつけているのだろう。

話がすこしそれるけれど、中学・高校で英語を習っていたとき、どうして複数になってもsがつかない名詞があるのか理解できなかった。
特に羊なんて、動物園やらマザー牧場で数頭が柵に囲まれているのが普通だから。
しかし、イギリスやアイルランドを旅してよくわかったことがある。
羊は本当に「そこらじゅう」にいるものなのだ。

ミスタービーンが、不眠症に悩まされたときのエピソードをご存じだろうか。
ありとあらゆる方法を試しても眠れなかったというのに、写真の中の羊を数え始めたら、ストンと寝てしまう。
そう、そのくらいいっぱい群れているのが普通なので、数えられないということなのだろう。

さて、この「Sheeps and Leeks」というお店は、予約時に前金で65ポンドを払い、メニューはウェールズ産の材料を使ったお任せの10皿のコースのみというお店。

10皿といっても、最初の数皿はアミューズブーシュで、カナッペのようなもの。
その中でもこの、パースニップのローストが秀逸だった。

下に敷かれた自家製バターミルクの重すぎない柔らかさとダールの複雑なスパイスがたまらない。

パースニップというのはローストビーフなどの添え野菜によくでてくるポクポクした食感の根菜。
見た目は白いニンジンのようだけれど、甘みの弱いカボチャあるいはサツマイモといった感じだろうか。

ほかのテーブルは、大半がカップル。
近隣の人たちが特別な夜にやってきたという感じだったなか、一人でコース料理を食べるアジア人。それがわたし。

もちろん携帯を眺めたりすることなく、スパークリング、白ワイン、赤ワインに食後酒までしっかりと堪能したけれど、おそらく店員さんの目にも他のお客さんの目にも、謎めいた客だったに違いない。

いい気持ちに酔いを感じながら、ひっそりと石畳の旧市街を歩く。
正面にはカナーヴォン城。その後ろには黒く揺れる水平線。

よかった。

パソコンの前を、
仕事部屋を、
自分の家を、
ロンドンを、

日常というがんじがらめの糸を、抜け出してきて、
本当によかった。

いただいたサポートは、ロンドンの保護猫活動に寄付させていただきます。ときどき我が家の猫にマグロを食べさせます。