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平沢進楽曲考察:「コヨーテ」

ご!

約五ヶ月ぶりの更新です。今回はふとした思い付きにより、平沢進の楽曲「コヨーテ」の考察でもしていこうかと。

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肝心の歌詞はこちらです。


さて、この「コヨーテ」という曲ですが、歌詞がストーリー仕立てになっていることもあり、内容を把握するのはかなり容易かと思います(平沢進の曲にしては特に)。表面だけを要約してあらすじに起こすと、

干ばつに苦しむ村の最後の水を奪い去ったコヨーテ。
悪さをしたコヨーテは村人に終われ、ついには殺されてしまいました。
しかしコヨーテが逃げた先にはなんと湖が広がっており、
村は干害から救われたのでした。めでたしめでたし。

みたいな感じでしょうか。

さて、今回の記事では、この要約が書きたかったわけでは勿論ありません。もうちょっと掘り下げて、歌詞に込められたメッセージ、言うなれば作者の気持ちを考えてみましょうということです。念のため前置きしておきますが、本記事の内容はあくまで個人の解釈なので悪しからず。

では本題。結論から言うと、この曲に込められたメッセージ、それは

偉業を理解しない大衆への皮肉

ではないかなと思っています。それを踏まえて、改めてこの「コヨーテ」の物語を追ってみましょう。

まず一番ですが、ここでは日照りによる干ばつに苦しむ村と、村の生命線である残り僅かな水、それを一人で飲み干してしまうコヨーテが描かれています。ここだけを見ると、コヨーテが盗人や悪人(悪犬?)のようにも感じられますが、コヨーテのこの行動が、結果的に村を救うことになるわけです。

二番に入ると、水を奪ったコヨーテを追いかける村人と、村人に追われて逃げ続け、追いつめられて木に登るコヨーテが描かれます。これもそのまま読めば、悪いことをしたコヨーテを懲らしめるために、村人がその後を追うという図になるでしょう。実際その通りではあるのですが、ここではそれに加えて、その追いかけっこによる副産物が歌詞の中で描かれています。

追いつ追われつ踏む草は百万
風もままと吹けば この世ではじめの"道"が成る

逃げるコヨーテによって草が踏み倒され、「道」ができていくという描写ですね。ここまでだと「道ができたから何?」という話なのですが、歌詞の続きを読めばわかる通り、この「道」によって、村は救われます。行き詰った村に、コヨーテが(意図的ではないにせよ)救いの道を示した...とも言えるのではないでしょうか。

続く三番では、怒り狂った村人によってコヨーテの登った大木が斧で切り倒されてしまい、それが谷の向こうへ渡る橋となります。コヨーテはその橋を進んで谷を渡りますが、湖を見つけたところで力尽き、追いついた村人たちに"晴れて"(この皮肉な言い回しが好き)八つ裂きにされ、さらには村人たちの夕食になってしまうという悲惨な最期を迎えてしまいます。

歌詞では、その後村がどうなったかは描かれていませんが、それは想像に難くありませんね。村の人々は湖が見つかったと大喜びし、その水により村は干ばつから救われ、人々は幸せに暮らしました...きっとそんなところでしょう。

さて、歌詞を読み解くとそんなところですが、ちょっと引っかかるものを感じます。それは「コヨーテは、村を救ったのに殺されちゃうの?」という点です。

湖を見つけることができたのは、言い換えれば村が救われたのは、もとはといえばコヨーテのおかげなのです。コヨーテが最後の水を奪い、得た力を振り絞って走りに走ったからこそ、村人は湖を見つけることができたわけです。もし最後の水をコヨーテが奪わずに、村人全員で分け合っていたなら、村はいつか完全に干上がり、全滅してしまっていたことでしょう。そこでコヨーテは緩やかに死を待つくらいなら...と、自分一人で水を飲み、弱った体を奮い立たせて水源を探しに走り去ったと、そんな解釈もできると思います。ですがもちろん、水源を探す気力を得るためではなく、単に残った水を独り占めしたかった可能性もありますが、その過程は些末なことだと思います。結果として、コヨーテの行動によって村は救われたわけですから。

ところがコヨーテは、「村を救った」英雄になるどころか、「瓶の水を奪った」悪党として無惨にも殺されてしまいます。これの示唆するところは、とどのつまり「大衆の無理解」なのではないでしょうか。何に対する無理解かは一概には言えませんが、コヨーテの最後の水を使って水源を探すという行動...いわば「挑戦」や「偉業」、「リスクを負うこと」への無理解、かなと思います。

実際、湖を見つけるという莫大な成果を村にもたらしたコヨーテですが、その成果を見せつけてもなお、大衆はコヨーテの挑戦・偉業を理解せず、あまつさえ殺してしまうのです。湖という成果までたどり着いても殺されてしまうのなら、成果までたどり着けず、無理解な大衆から延々と非難され続ける挑戦は、どれだけ悲惨なものだろう...。そんな無情さに対する悲哀や諦観の混じった思いが、ここまでの歌詞から感じ取れるかと思います。

ですがこの「コヨーテ」、ラストの語りで大衆の無理解に対する一つの答えが示されています。それは「もっとかしこく逃げていただく」こと...。つまり「大衆が無理解なら、逃げる側がそれを理解して賢く立ち回ればいい」ということです。大衆の理解を無理に得ようとするのではなく、バッシングされないようのらりくらりと大衆の目をかわしつつ、自分のやりたいことはしっかり推し進めるのが賢い...という考えですね。確かに、他人の考えを改めさせるよりも、自分が立ち回りを見直した方が解決は速いように思います。他人の考え方を変えるって、かなり重い仕事ですからね。それに無理解な人間からの助言(笑)は、ノイズにしかならないことも多々ありますから、そんなものにはイチイチ取り合わず、自分のやりたいことに集中するのが得策でしょう。

ここからはちょっと余談です。最後の語りですが、この一連のセリフは実は、リスナー(特に、自分の信じる道を進もうとしている人)に向けたものではないかと思っています。というのも「君は進化の度合い 二歩と半分」という一節がありますが、平沢進が使う「君」はリスナーを指す場合がほとんどだからです。「進化の度合い 二歩と半分」というのは、進化の度合いが高いのか低いのか判断に悩むところですが、平沢進はリスナーには優しいことが多いので(よわよわ根拠...)、「二歩と半分」は「高い」と考えていいのではないかなと思っています。そうすると、一連のセリフは平沢進からリスナーへのメッセージという解釈で、十分に成立するかと思います。

さて、考察としてはこんなところでしょうか。大衆への皮肉たっぷりな物言いや、結局のところ「自分を信じて進めばよい」といういつものメッセージなど、童話チックな物語の中に、平沢進テイストがコッソリ詰め込まれた名曲です。拙文ながら、少しでも良さが伝われば嬉しいです。

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