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自然に生きるという難題

子供の頃から自然に過ごすのはどういう事なのだろうかとずっと考えていた。
自分のやりたい事をやると怒られたし、世界は頭ごなしに「やりたくない事をしないといけない」と言う。

「理由もなくやりたくない事をしないといけない世界の方が歪んでいるんじゃないか?」と、ずっと思っていて僕はレールから外れるように高校を中退した。
そして仕事をするようになってからは能動的に、大変なことを自然にするようになっていた。

そして今、色々なことを学んだからこそ、また、自然を考えるようになった。

自然とは、一体なんだろう? と、いう問いに対する今の僕なりのアンサー。

目次:
1.自然から離れて暮らす僕ら
2.自然の定義
3.4つの自然
4.不自然とはなにか?
5.不自然と孤独
6.人間と自然と道徳と世界
7.自然に生きるという難題

自然から離れて暮らす僕ら

僕らの世界は弱肉強食の世界から切り離されている。目の前で動物を殺して命を頂かないし、魚は切り身で売られていて、調理して冷凍された物がコンビニには並んでいる。
食事の際、する事といえば「お金を払う」か、「レンジに入れる」か、「お湯を入れる」事が多くて、その時に命を頂くなんて微塵も思っていない。

安全で快適な家に住む時はタワーマンションを選ぶし、水も火も捻れば出てきてボタンを押せば情報にアクセスできる。

僕らは自然の一部なのに、祖先が生きていたような自然とは全く違う状態を生きている。

祖先が狩猟農耕民族として生きていた頃、自然はいつも隣にあって死は実感だったからこそ、生きることも実感だった。

自然から遠い現代人は、祖先が当たり前に感じていた「自然」を再定義しなければならない。

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自然の定義

日本語の“自然”は、とても曖昧だ。森や川を自然という場合もあれば、振る舞いを自然という場合もある。
本来、自然は宇宙から人間まで含めたものであって、人間が区別されるものでもないから、本当は人間が生み出したテクノロジーも自然なはずだ。

落合陽一さんの著書、デジタルネイチャーには「生物が生み出した量子化という叡智」という言葉が出てくる。

量子というのは自然における物事の最小単位。物事は突き詰めれば最小単位が出てくる。
昔は原子が最小単位だと思われていた。けど、量子論が量子力学になったタイミングから、最小単位は原子ではなく量子になる。
光子(フォトン)、電子。この辺りが自然における最小単位だ。

離散量という用語がある。離散量とは物事における最小の単位のこと。相対する言葉に連続量がある。
連続量とはコップの水のように個別に測れないもの。

manyとmuchの違いだというとわかりやすい。個別に測れるものはmany。個別に計れないものはmuchで表す。
manyで表せるものには人間が認識できる最小単位がある。コップ、車。単位があるものがそれだ。
muchには人間が認識できる最小単位は無い。しかし、本当は最小単位がある。それが量子だ。(量子の振舞いによって物質は事象が変化するので、古典物理的な最小単位ではない)

人工物の場合は最小単位を量子単位としない離散量がある。デジタル信号を離散量とする場合も有れば、レゴのようにブロックを最小単位とする場合もある。おそらく離散量を量子単位以上の大きな単位で設けた自然物や生物以外のものを人工物というんだろう。

なお、「量子化」は、自然の連続量を量子単位ではない離散量で近似値的に表現する事。生物はそれを4進数のDNAで実装してきた。(アデニン(A)、チミン(T)、グアニン(G)、シトシン(C)という離散量を使った塩基配列) だから、「生物が生み出した量子化という叡智」と、なるわけだ。それを計算機テクノロジー(現状2進数)で再構築しつつ、自然と計算機自然が融合する世界がデジタルネイチャー(だと理解している)

4つの自然(最小単位別)

最小単位別の自然を分類すると、おそらくビッグバン~現状までで内包している自然は下記の4つになる。

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1.無生物自然(宇宙や原始地球,素粒子などの量子単位)
2.生物的自然(DNAテクノロジーを使った自然 / 植物や生物,4進数)
3.人工物自然(人間が合成して生み出した自然,人間認識アルゴリズム)
4.計算機自然(計算機テクノロジーの自然,半導体単位,2進数※量子コンピュータ次第で変化)

言い換えると、

1.宇宙の自然法則=無生物自然
2.地球上生物の円環的コミュニティ=生物的自然
3.人間の生み出した自然=人工物自然
4.半導体を使った2進数の自然=計算機自然

4つの自然の最小単位の大小の誤差が人間の感じる違和感になる。

無生物自然の最小単位は素粒子だから、大きさは無いに等しいほど小さい。

生物的自然の最小単位はDNA二重らせんの1周である10塩基対で3.4nm(ナノメートル)

計算機自然の最小単位はインテル最新プロセッサ1個につき最新で10nm(ナノメートル)

人工物の最小単位は物によってバラツキがあって本当の最小単位は無生物自然と一緒だけど人間が知覚可能なことの組み合わせになっている。それは、アルゴリズムとも呼ばれる。
ピラミットであれば最小単位は石であり、敷物であれば織り目一つだ。

計算機自然のオンオフの最小値ですら、DNA2重螺旋塩基配列10個分より3倍位大きい。

人間は生物なので、生物的自然より最小単位が大きいと違和感を感じるのだろう。

不自然とはなにか

人間が感じる不自然とは、おそらく解像度の事だ。
無生物自然~生物的自然の大きさの解像度であれば、人間は自然と感じる。
人間も生物なので自然な最小単位は生物的自然の大きさだからだ。

しかし、人工物となると最小単位を細胞レベルに持っていくことが難しくなる。
再現可能性を目的とした人工物は量産を前提に作られているのが理由だ。
再現可能な事を目的としていない石版や、しめ縄は解像度が高い。しかし、再現可能を目指した版画の解像度は低い。

再現可能性を高くした場合、解像度が落ちる。
ファストファッション、ファストフードの解像度は、料亭の料理より低い。
これは再現可能性を汎用にした結果だ。だから、マクドナルドを食べた時に不自然だと感じる。
スーパーに並べられている肉や野菜も均一だと再現可能性を突き詰めてしまって不自然になってしまう。

伝達コストを下げると自然度が下がる。
再現可能性を上げると、解像度が落ちる。

解像度の下がった自然を不自然と呼ぶのだろう。


不自然と孤独

人は共感出来ないと孤独を感じる。
人間世界の中でしか孤独を感じないというが、その原因は共感にあるからだ。

人は人間以外の生物と共感できる可能性はごく低いと感じている。
だから、違う生き物と自分は各々が違うという事を認めているし、どんなにペットと仲良くとも、そもそも理解されないのが当然だと考えている。

生物としての違い程度に共感が難しい事が前提にあれば、多様性を認めて過ごすので孤独は感じない。

それとは反対に人は感情が理解されないと孤独を感じる。

そもそも、感情というのは生物集団(人間の場合は最大150名程度)が共感をベースに集団で最適に何かを行う際に有効な作用だ。

感情を共有するためには同じ生活を行い同程度の情報を皆が見ている必要がある。
過去の部族や村ごとの外界ネットワークから孤立した集団には、それが可能だった。

多くの人は、この集団の頃の感情と共感作用が未だに当たり前だと思っていて、情報が活発になった現在も相手が同じ世界を見ていると勘違いしている。

今は情報が多様だ。親より遠くに住んでSNSで繋がっている人のほうが同じ景色を見ている可能性も高い。
だから、正月実家に帰ると、見ている世界の相違が判明してしまい親子喧嘩になる。

この、全員が同じ世界を見て共感できるだろうという勘違いが、孤独の原因。

この共感を150人以上に広げようとしたのが、人工物自然。
同一の信仰を持ち、信仰を拡大するために神殿装置を作る。
信仰における神殿や聖典は、戒律を作ることで同じ景色を見るという勘違いを最大に利用している。
思想を仮にでも統一すること、勘違いした共感を最大限に利用し、孤独を防ぐことによって共同幻想を生んだ。

戦後の日本で行われてきたことは、テクノロジーを使って勘違いの共感を国中に広げることだった。

不自然な共同幻想世界が孤独を生んでいる。


人間と自然と道徳と世界

人間は自然の一部だ。だから、自然で無いと違和感が出る。それがストレスにつながる。

そして、人間という存在自体は自然と相対的だ。
私は自然の中にしかいないから、自然がなければ私はいない。

「我思う、故に我在り」であるが「在る」ためにも「思う」ためにも自然が必要。
そして我思うのは何故かを考えるが、我は自然の一部なだけなので、そこに実は意味はない。
ただ、生物の円環的コミュニティの中に存在しているだけだからだ。

しかし、情報が溢れて神やヒーローが物語に登場する世界を生きてきた人間は、
意味がないと言われると不安なので意味が欲しくなる。

その物語を聞き続けた子供が"死"を意識した時、急に不安になる。
そして、不安な気持ちで母親に相談しに行く。
そのわが子を見た母親は「生きる意味なんかないのよ」と、言う訳にはいかない。
子供をなんとか安心させたいので「死んだらお星さまになって天国で永遠に生きるのよ」と、子供に死んだあとの安心を教える。
人間の命は永遠に続くストーリーだという勘違いを延長させることで子供に安心を与える。

さらに、この世でいい行いをしないと天国に行けないと言って、道徳的な教育にそれを利用する。
子供は生死という価値観に善行と悪行を照らし合わせて道徳的になっていくが、その過程で「いい」と「悪い」を、自己認識しながら進む事で主観的価値観が醸成される。

しかし、世の中は、"みんなで決めて子どもたちに教えたはずの道徳を守らない大人"で溢れている。本当は虚構だから。
そうすると、子供の頃、親に教わったいい事や、教会でお祈りした時の清らかな気持ちが嘘なんじゃないかと、少しずつ感じる。

そして、回りを見渡すと、悪そうな大人がいい思いをしているように感じるし、明らかな嘘つきが国の中枢にいる。

インターネットで繋がった現在、嫌でもそういった多くの情報が入ってくる。
そうすると、教えてもらったはずの安心できる世界は嘘で、世界は歪んでいて、天国は幻想なんじゃないのかと気づき始める。

気づいた所で、どこにも正解は書いていないし、今まで信じていた正義は何かもわからない。
正義とは人間集団や個人が、主観によってストーリー上に定義している物であって、絶対的では無いからだ。

言語や文化が出来る前は円環的な食物連鎖が自然を支えてきた。
そして土や森、海の中など多様な環境で無生物自然と生物が寄り添い世界は循環されてきた。

しかし、人工物自然が出てきてから、自然は人間によって不自然と呼ばれる姿に変わってきた。
そして、生まれた瞬間から人工物自然の中にいる我々は"自然"が何かわからなくなる。

しかし、自然と相対的な人間は本来、"自然"を理解する必要がある。
自然がわからないと"自分がわからない"からだ。


自然に生きるという難題

人間は自分自身がわかってくると「自分らしい価値観」が出てくるから「他人の価値観」が気にならなくなる。

だから、本当の自分を知ろうとか、自分らしく生きるのがいい。と、世間では言われている。

しかし、自然の一部である人間は、"自然が何か"自分の中で定義出来ないと、自分も定義できない。
自然と自分は相対的だからだ。
他人に教えてもらう物語じゃなく、自分自身で自分を見つけるためには自然を知る必要がある。


自然を感じるためにはいくつか方法がある。

1.自然と共に生きる。
2.自然を身につけたり食べたりする。
3.自然方向にマインドを寄せる。
4.自然を頭で理解して定義する。

1.自然と共に生きる。
これは、祖先がそうだったように、採集や農耕をする事で体を使って自然をダイレクトに感じる方法。
なぜ山を登るのかとか、なぜ海を眺めたいのかとか、そういう事にも近いと思う。
生物の円環的コミュニティにダイレクトに入れば考えずとも自然が理解できるからストレスがたまらない。

2.自然を身につけたり食べたりする。
「オーガニックな素材を使った服を着てる」とか「玄米を食べる事が自然なんだ」と、言う人はほとんど笑顔で楽しそうに見える。
不自然を脱却するために自然を買ったり苦労して手に入れたりすることもまた、人が自然に寄り添う方法なんだろう。
落合さんが言う、「鮎と、うなぎは自然をダイレクトにいただけるから複雑性を感じていい」の意味がわかった気がする。

3.自然方向にマインドを寄せる。
最近、座禅が流行っていてマインドフルネスになる。という事を聞いたり、ヨガがいいという事がある。
これはマインドを自然な状態に持っていく方法だ。解像度の低い不自然を仕事でやっていると、より、やりたくなる。
たくさん「寝る」事で、これをしている人もいる。

4.自然を頭で理解して定義する。
この方法をとっているのが学者と言われる人々だ。
論文を使って一つずつ定義していく。宇宙の法則を数学を使って解いて、生物の循環を研究して世界に警鐘を鳴らす。
しかし、これ全体を定義して理解してくのは最も難しい方法に感じる。

学習というのはインプットとアウトプットが同量無いと理解できないし身につかない。
知っただけの知識は自分の意見じゃないから、それを溜めすぎると先入観になる。
それは人の価値観で生きることにつながってしまうから、高学歴でも平気で「ヘイトスピーチ」をする事になる。

だから、インプットした知識の中から自分で「仮説」を立てて、アウトプットで「検証」する。
その結果を論文に記して「物事を定義」する。
論文の形を取らなくても作品作りや本を書くことで多くの人がそれを行っている。

それを4つの自然単位全部で考える事が出来ると、自然と自分は相対的なので、
「自然が定義できる」=「自分が定義できる」

ただ、それを行うには膨大なインプットとアウトプットが必要になる。

だから、この方法使って自然がなにか知った上で、「自然に生きる」のはとても難しい。


さいごに

これは、僕が学習して「仮説」を立てている自然のあり方だ。
これ以外に「時間方向」の自然と不自然があると思うし、他の方向の自然と不自然はたくさんある。

生物が反映してきた戦略は「多様性」だ。だから生物には多くの亜種が在るし、種類自体も多様だ。

みんな違って、みんないい。

だから、これはなんでも無い、今の僕の思想。

けど、これを書けたことは、今の僕にとって、この上ない喜びだ。


サポートいただけたら嬉しい限りです。