川島孝介Kosuke Kawashima

東京学芸大学教職大学院M2|文学教育とサッカーについて考えています。|サッカー歴:桐朋…

川島孝介Kosuke Kawashima

東京学芸大学教職大学院M2|文学教育とサッカーについて考えています。|サッカー歴:桐朋高校→東京学芸大学蹴球部→SETAGAYA UNITED|卒論「村上春樹とドゥルーズ=ガタリの哲学」|

最近の記事

研修旅行-京都教育大学、関西大学- 2

もうひとつ印象に残ったのが、「STEAM教育」というワードと、それを取り巻く状況である。二日目の関西大学初等部では、盛んにこの「STEAM化」という言葉が使われ、公開授業においてもキーワードとなり、「STEAM化」された授業とはどういう授業なのか模索されていた。 ここでは「STEAM教育」の是非というより、それを取り巻く状況について考えたい。そもそも、「STEAM」とはなんだろうか。一般的には、以下のように説明される。 STEAMとは、科学、技術、工学、芸術、数学のそれぞ

    • 研修旅行-京都教育大学、関西大学 1

      少し前になるが2月3,4日に大学院の同期数名で現職の先生方と共に、関西へ研修旅行に出かけた。今回はそのことについて書こうと思う。2日(木)の夜の夜行バスに乗り、3日(金)に京都教育大学付属桃山小学校の公開授業、4日(土)に関西大学初等部の研究発表会に参加した。関西の学校の授業を見るのは初めての経験であり、関西弁が自然に飛び交う教室の様子は新鮮だった。 ここでは印象に残った点についていくつか書き記しておきたいと思う。まず驚いたことは、思考ツールがどの授業でも使われていたことで

      • 知識は爆発する—西郷克彦『間違いだらけの学習論』より

        「なるべく覚えるものは少ない方がラクでいい」 「漢字テストの範囲は狭ければ狭いほど覚えるのが簡単だし、歴史の知識問題は時代が狭ければ狭いほど覚えやすいだろう」 私たちは一般的に、「何かを学習する時、学習対象が少なければ少ないほどやさしい」と考えがちだ。 西郷克彦『間違いだらけの学習論』では有名なひとつの実験結果が紹介される。【記憶力】の調査のために、大学生に以下の問題を解いてもらったという。 問い:次のものを年代の古い順に並べてください。 ①墾田永年私財法②三世一身法

        • 映画『おくりびと』感想

          オーケストラの一員だった主人公は、自身のチェロを1000万円かけて新しく購入し不退転の思いで楽器に励み夢を追いかける。しかしオーケストラの人気は出ず、客は少なくあっさりと楽団は解散になる。彼は自分の夢との葛藤で悩む。もう若くはないし、自分の楽器の才能は悪くはないが、明らかに才能があるというわけではないのだ。 東京から出てきた彼は山形に帰る決心をする。それを決めたのが、夕飯用に妻が買ってきた蛸が生きていて、二人で近くの川まで戻しにいくも、蛸は泳ぎ出すわけでもなく場違いに生きて

        研修旅行-京都教育大学、関西大学- 2

          状況分析と方略

          物事が上手く行かなくなったときに、「なんでこうなってしまったのだろう」だとか、「この局面を自分は乗り越えることができるのだろうか」と考えてしまうことがある。そんな時に、「そんなことつべこべ言ってないでどう乗り越えるかだけ考えろ」という人もいる。 前者は状況分析で、後者は方略である。同じ「考える」という行為でも、思考のフェイズが違っている。問題の渦中にいるとき、解決するためには状況分析は必要ない。方略をとにかく考え抜くべきである。状況分析は、後からでもできる。 思考力が高い

          贈与、交換、村上春樹

          資本主義の根幹を支えている論理、それはあらゆるものは「交換」することが出来るという論理である。それは、あらゆるものを商品としてみなすことと同じである。つまり、「お金で買えないものはない」という価値観に立つことでもある。 一方、「贈与」とは何か。「しがらみ」である。人は何かを贈与されると、何か返さないといけないと無意識に思ってしまう生き物である。すなわち、「贈与」が行われる生活では「しがらみ」が生まれるのだ。資本主義がまだ未熟だった頃、例えば昭和初期の生活を想像してみて欲しい

          贈与、交換、村上春樹

          小川洋子「刺繡する少女」

          あらすじにまとめると何ともない短編である。末期がんの母親を持つ30歳ほどの僕が、最期が近づいた母親の看病をするため何週間かの休暇をとりホスピスで二人過ごすことになる。ホスピスで何日目かのある日ホスピス内のボランティア室で、20年ほど前に別荘で出会った少女との再会を果たす。 その少女はよく刺繡をする少女だった。僕は母親の死を目前に控え心理的に不安定である。段々とやせ細り、衰弱していく母親を前に不安な気持ちはどんどん膨らんでいく。だけど、同時に、〈刺繡する少女〉との記憶が、彼を

          小川洋子「刺繡する少女」

          文学はどこから始まるのか

          最近出会った映画、小説を読んでて思ったこと。ひとつの小説の主人公は、皆んなと食事をするのが嫌いだと言う。「皆んなが美味しい美味しいって言ってご飯食べていても、誰もが同じ好みを持ってるわけじゃないし味覚だって人それぞれ違う。だから、おいしいご飯を皆で食べることはできない」と。 そっかー。俺自身は、皆んなとご飯食べるのが大好きだ。むしろそれが人生の喜びだと思ってるくらい好きだ。部活終わって、皆んなとダベりながら行く飯も大好きだし、ゼミ終わって皆んなであーだこーだ言いながら食べる

          文学はどこから始まるのか

          評論文の授業

          実習で行った現代文の授業について振り返ろうと思う。 題材は「無彩の色」という評論文を扱った。学年は高1。内容を簡単に説明すると、芸術家であり写真である著者、港千尋が、一見マイナスなイメージを持たれがちな彩りの無い色(白、黒、灰色)にスポットライトを当て、いや地味なこれらの色にも地味だからこその良さがあるでしょう、と主張するものだ。 最後には日本文化と灰色の関係を指摘し、日本には「灰色の美学」があると主張する。 本文を意味段落ごとに3つに分け、授業は大体1時間に1つの意味

          渡部颯斗という男

          整ってる男、颯斗くん。 実習先で一緒になった。 とにかく颯斗くんは整っている。毎朝4時半には起きて、7時には勤務校の最寄り駅に着き、1時間スタバで作業する(もちろん、マイ・タンブラー持参だ)。そして8時過ぎには学校に着く。本日のスケジュールを確認、着替えを済ます。8時半の朝会には、あのいつも通りの爽やかな笑顔を浮かべ同僚たちの前に現れる。 机の上には何やら難しそうな本と、Mac、整理された書類たち、そしてランチバック。そう、彼はこの朝活をしながら朝お弁当まで作っているの

          渡部颯斗という男

          こうだからこうの世界から、この局面はこうの世界に

          藤井聡太botから流れてきたフレーズがふと目に止まった。何か惹かれた。「昔は「相手に負けたくない」という気持ちの方が強かったんですけど、最近は「いままでの自分よりも少しでも強くなりたい」気持ちのほうが、強くなってきた気がします。」何に惹かれたのかはわからない。でも、よくよく考えてみると、俺なんかより遥かに若い年齢で自分の中に「昔」と「今」の時間軸があることに驚く。 「この人は俺より遥かに若く遥かに老成しているのだ」と思った。自分の中に昔はこうだったものが今はこう変化したと、

          こうだからこうの世界から、この局面はこうの世界に

          どくしょ感想:『13歳からのアート思考』/『言葉を離れて』

           最近たまたま芸術系の本を2冊読む機会があったので、今回はその事について書こうと思う。自分自身はもともと芸術系は全く苦手で、図工の成績も美術の成績も特にパッとするものではなかった。でもだからといって芸術という分野に全く興味がなかったわけではなく、何だかよく分からないけどかっこいいものという存在であった。「美術館行くのが趣味です」とかかっこいいけど、よくわからないからそもそも楽しめない。そんな感じ。 そもそも、美術ってこうやればいいって正解がないから難しい。どーやればいいのか

          どくしょ感想:『13歳からのアート思考』/『言葉を離れて』

          心は観察しかできない

          割と長い引用になってしまうのだけど、俺がよく考え方の参考にしている為末大さんの本の中の一説を紹介するので、皆さんも良ければぜひ。 自分の中の小さな子供を扱うように自分を扱ってみる、というのはすごくおもしろい考えだと思う。 俺はけっこー自分の中の小さな子供の扱いは苦手だった。よく頭で抑え込んでいた。 前に修学旅行の引率のボランティアをしたときに、子どもが思うように動かないときに「なんでルールを守れないの!」と割としょっちゅう怒鳴る先生がいた。 きっとその人は、自分の中に

          心は観察しかできない

          「議論」——あるいは、いかにして問題を解くか。

          何か話し合いをするとき、間違いなく最終的に「〇〇とは何か?」という問いが出てくる。例えば、「「ヤバい」という語の流行は言葉の進化か退化か」という話し合いをする。最初は各自が自分が持っている考えをぶつけ合うだろう。そして、両方の考えにも一理あることは理解する。その後必ず、じゃあ 「「退化」ってなんだ?」って出てくる。「「言葉が進化する」ってよくよく考えたらどういう意味だ?」と。言葉を正確に定義しなければ議論が進められない段階が必ず話し合いをしているとくるのである。ここでの対処

          「議論」——あるいは、いかにして問題を解くか。

          『身体論のススメ』

          批評ゼミ、7月のテーマは身体論。 読書会で扱った本は下の本。 身体論とはどういうジャンルか。まず、デカルト的心身二元論がある。「わたし」の存在の根拠は存在を疑う「わたし」であり、精神なのだと言う。身体はただの入れ物に過ぎないと。「我思う、ゆえに我あり」ってやつだ。ただ勿論反論も出てくる。 本当に心と体ってきれいに分けられるものなのか?例えば、小さい時ケガをしたらお母さんに「痛いの痛いの飛んでいけー」と言われたことはないだろうか。そういう言われたところで物質的な痛みが減るわ

          『身体論のススメ』

          『人はいかに学ぶか』―学習論的転回―

           学習論というテーマは日々学問と向き合う大学院生のみならず、現場で働きだした同期の先生たち、さらに一般企業に就職した人やスポーツ選手にもホットなテーマといえないだろうか。「お勉強」は学校で無理やりさせられるものかもしれないが、「学習」は仕事においても、スポーツ現場でも、日常生活においてもつきまとう。  以下は、学習論における古典的名著である稲垣佳世子・波多野誼余夫『人はいかに学ぶか』日常的認知の世界 中央公論社、1989年の内容をまとめたものである。  …授業のレポートに

          『人はいかに学ぶか』―学習論的転回―