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評論文の授業

実習で行った現代文の授業について振り返ろうと思う。

題材は「無彩の色」という評論文を扱った。学年は高1。内容を簡単に説明すると、芸術家であり写真である著者、港千尋が、一見マイナスなイメージを持たれがちな彩りの無い色(白、黒、灰色)にスポットライトを当て、いや地味なこれらの色にも地味だからこその良さがあるでしょう、と主張するものだ。

最後には日本文化と灰色の関係を指摘し、日本には「灰色の美学」があると主張する。

本文を意味段落ごとに3つに分け、授業は大体1時間に1つの意味段落を終えることを目安として進めた。

実習が始まって最初の頃は、授業の出来は酷かった。生徒の頭が止まっているのが分かる。でもだんだんやってきて分かった。こちらが良い発問をすれば、生徒の頭が「ギュイーン」と動く。まじに、「ギュイーン」って音が聞こえるのだ。視覚的に。それくらい、良い発問をしたときは反応で分かる。

では良い発問とは何か。

まず、これは何でかは分からないのだが、伝えたいことを自分が言ってしまうと本当にすべてが終わってしまう。全く伝わらない。例えば、「日本文化には昔から地味な色を愛でる文化がありまして、伝統的な色名に灰色系の色が多くあります」と言っても、生徒は反応しない。賭けてもいい。「へえー」で、終わり。

生徒の頭を動かすには、先に質問をする。質問をすると、人間の脳はそれについて考えざるを得ない。スライドに「四十八茶百鼠」という言葉だけ出す。「皆さん、この言葉を知っていますか?」。皆の頭が動き出す。「よんじゅうはちちゃ…??」「オッケー。じゃあまず読み方だけでも確認しよう。何て読むと思う?」

「…しじゅうはっちゃ…ひゃくねずみ?」「そう!すばらしい。ありがとう」「この言葉はね、江戸時代に生まれた言葉で…」という感じで言葉の背景・意味を説明する。

簡単に説明するとこの言葉は、江戸時代に奢侈品禁止法というものが出されて派手な色の服が切れなくなった当時の町人たちが生み出した言葉だ。

使える色彩が制限された中でも、当時の人々は遊び心を失わなかった。

茶・鼠・紺などの地味の色の中に微妙な変化を見出して、その微妙な違いを「粋」なものとして自己表現に用いた。そうして、茶・鼠にいろいろな色が生まれた。その名残で、日本の伝統的な色名にこれらいわゆる地味な色の名前が異常に多い。

これが、「四八くらい多くの茶色があり、百くらい多くの鼠がある」という意味で生まれた「四十八茶百鼠」という言葉の語源である。

以上を口頭とスライドで簡単に説明してしまう。

そして、スライドにたくさんの色見本と伝統的色名の名前を挙げる。たくさんの色がスライドに現れる。

「梅鼠・桜鼠・深川鼠・鳩羽鼠…鼠色だけでこんなに種類があるんだね」。そしてさらに余裕があれば自分で調べ実感を持たせる。「じゃあこの中で一番気になった鼠色の意味や由来を調べてみよう」。さらに余裕があるなら周りと協力させる。「自分が調べた色と周りの人が調べた色を報告し合おう!」

スムーズだ。スムーズな発問は上手くいく。

みんな誰だって気になった色はもっと知りたくなるし、せっかく調べたのなら、誰かにそれを伝えたくなる。無理に言うことを聞かせようとしなくても、自然と生徒たちも動いてくれる。

この流れができてしまえば、授業はずっと楽になる。自ずと先生も、楽しくなる。

もちろん、授業に正解はない。対象学年・生徒の雰囲気・学力・時期・一日の何時間目か・そもそも準備する時間がないなど、色々な要素が授業を構成する。

ただ、なるべく自分ごとに評論文を考えさせたい。

授業を楽しんでほしい。

そういう思いで、実習中は授業を作った。



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