見出し画像

実話怪談 #32 「ドアの向こう」

 これは三十代前半の女性、川口さんのだんである。

 中学生のときの話だという。
 川口さんの両親は共働きであり、彼女が下校したさいには、家に誰もいないことが多かった。その日も二階建ての戸建住宅は無人だったそうだ。

 家に入った川口さんは玄関ドアの鍵を閉めて、三和土たたきで学校指定の革靴を脱ごうとした。そのとき、ふとなにかの気配を感じて、後ろを振り返った。
 
 玄関ドアには明かり取りのために縦長の窓が設けられていた。横幅は二十センチほどしかないないものの、高さはドアの上から下まで貫いている。窓にはりガラスが嵌っており、そこに背の高い男性の姿が透けていた。男性はこちらを見つめるようにして、ぼんやりと立っている。

 磨りガラス越しに見える男性の姿は、水の中にいるかのように滲んでいた。そのため顔立ちの細部まではわからなかったが、全体の雰囲気からして年齢は三十歳前後に思えた。上は白いシャツらしきものを着ており、下は細身の黒いパンツを履いている。
 
 おそらくこの男性は生身の人間ではない。川口さんはすぐに直感でそう悟ったが、不思議と怖いという感情は抱かなかった。男性はこの世ならざるモノではあっても、だからといって悪いモノではないだろうと、どことなくそのような印象があったからかもしれない。
 とにかく、自分でも驚くほど冷静に、男性の存在を認めていた。

 男性は一分ほどそこにぼんやりと立っていたが、そのうちすうっと後ろにさがっていき、磨りガラスの前から姿を消した。
 川口さんはドアハンドルに手を伸ばしたが、思い直してその手を引っこめた。ドアを開けて本当に男性が消えたかを確かめても、これといって意味がないと判断したためである。

 その日を境にして、毎日のように男性が現れるようになった。川口さんが中学校から帰ってくると、玄関ドアの磨りガラスに、ぼんやりと立つ男性の姿が透けているのだ。
 男性の姿はいつも同じだった。水の中にいるかのように滲んでおり、上は白のシャツらしきものを着て、下は細身の黒いパンツを履いていた。
 そして、一分ほどするとすうっと後ろにさがっていき、磨りガラスの前から姿を消した。

 ドアを開ける直前に背後を振り返って、人の有無を確かめたこともある。誰の姿も認められなかったというのに、ドアを開けて玄関に入ってみると、磨りガラスに男性の姿が透けていた。

 得体の知れない男性が毎日毎日執拗に現れる。恐怖を覚えてしかりといえる状況だというのに、それでも川口さんは怖いとは思わなかった。やはり男性に悪いモノという印象がないからだった。

 そんな不可解な現象が続いていたある日のことだった。
 中学校から帰ってきて家に入った川口さんは、玄関の三和土から背後のドアを振り返った。いつもの男性が磨りガラスに透けており、ぼんやりと立ってこちらを見つめていた。

 川口さんは男性に話しかけてみよう思った。そんなふうに思い立った理由は、自分でもよくわからなかった。だが、その日は男性に話しかけてみたいと、そういう強い衝動に駆られだのだった。

 川口さんは玄関ドアに一歩近づき、磨りガラス越しに問いかけた。
「なにか用ですか?」
 すると、男性は短い間のあと、くぐもった声で言った。
「家の中に入れてもらえませんか?」
 川口さんは少し悩んで答えた。
「ダメです」
 すると、いきなりドアがバンッと強く叩かれた。
 男性が手の平を使って叩いらしい。

 それから男性はしばらく黙っていたが、やがてさっきと同じことを口にした。
「家の中に入れてもらえませんか?」
「ダメです」
 川口さんが同じく拒否すると、男性は再びドアを強く叩いた。
 叩いたあとはしばらく沈黙し、またも同じことを口にした。
「家の中に入れてもらえませんか?」
「ダメです」
 すると、男性は再度ドアをバンッと強く叩いた。
 だが、今度は一度だけではなく、バンッ、バンッ、バンッと、何度も続けてドアを叩いた。

 十回ほどドアを叩いた男性は、急に叩くのをやめて、あとはもう口を開かなかった。そこにぼんやりと立って、磨りガラス越しにこちらをじっと見つめていた。
 やがて、すうっと後ろにさがっていき、磨りガラスの前から姿を消した。
 その日以降、男性は姿を見せなくなった。

 当時の川口さんは、男性がこの世ならざるモノであっても、悪いモノとは感じておらず、怖いというふうには捉えていなかった。しかし、今になってそれは間違いだったのだろうと思っている。

 ドアをバンバンと叩くあの行為はひどく暴力的だった。それに強い害意も感じられた。
 きっとあれは悪いモノだった。
 あのとき、ドアを開けて家の中に入れていたら、どうなっていたのだろうか。

     (了)


他にも実話怪談を公開しています。

まえがき的なページに、他の怪談話へのリンクをまとめています。
まえがき的なページはこちら

サポートしていただけたら、祝盃をあげようと思います。と言いたいところですが、僕はお酒が飲めません。大好きな梨を大人買いしようと思います。ちなみに僕は梨を皮ごと食べます。柿も皮ごと食べます。