見出し画像

喪中な私

 臨時職員募集の面接と資格試験の勉強の気合を入れるために出来上たメガネを受け取りに行き、洗い流さないトリートメントを買って来た。
このネガネでようやく老眼鏡の上に拡大鏡をかけてないとテキストが読みづらい環境から抜け出せる。
いち髪の香りが「山桜」だと書いてあったので、元燻製屋さんとしては最高のお守りになると思い買いに行ってきたのだが、もちろん同じ山桜でもコチラは「花の香り」であって、燻製屋さんの幹を燻ぶらせてナンボの香りとは全く違うのであった。髪につけてみて反射的に「違う!」と思ってしまった自分をアホか!とツッコミながら、まぁお守りだしと納得させた。

良いお年をお迎えください

 年末恒例の挨拶だが、かなりこの言葉に心を削られてしまった。あまり言葉尻を捉えたり、揚げ足取りな物言いを好まない質なのだが、年末にこの言葉を掛けられてもすっと受け取ることができず、また自分の口からも出せずにいた。
 気になって「喪中 年始の挨拶」でマナーを調べてみたが、何処のサイトでも使用して大丈夫と書かれている。
「良い」の部分を気にする場合は「今年はお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします」を使用するとある。自分の思考を突き詰めていくと

良い年をお迎えください→今年は悪い年だった=彼の死は穢れだった

という見事に揚げ足取りの思考回路が成立しており、もう一言付け加えると

彼と過ごした最後の年が終わる→彼なしの年が始まる=いい年の訳がない

これまた正月という全てを拒否したい精神状態である。年末年始の常識はこれからも変わらないだろうけれど、私は今後、もし喪中の方と年始のご挨拶をする機会があったとしても普段の挨拶しかしないだろう。

 共に人生を歩むと決めた人と共に暮らしていたのが日常であったのだから、彼が居なくなってしまった私は未だに「非日常」に暮らしている。彼が居ないのが私の日常になるにがいつになるのかはわからないが、少なくても喪中の正月は、正月というだけで精神的に削られる。

今年もよろしくお願いいたします


 しかしながら、年賀の挨拶を戴いてしまった以上お返事を差し上げない訳にはいかないので、今年もよろしくお願いいたします。という返信をすると考えているのだが、三箇日が過ぎてからかな?1月7日過ぎかな?とこれまた悩む。
 もうちょっと踏み込むと、私と彼がずっと一緒に暮らしていたのを知ってる人がなんで年賀の挨拶を送ってきたのだろう?それも私の連絡先をお教えしたのは彼が亡くなった後なのに。

 いろいろな人がいる。自分の尺度で測るのはやめよう。ヒトとはいつ何があるかも知らず歩み続ける生き物だと身を持って学んだばかりなんだ。
こんな些細なことで悩むよりも相手が気持ちよくなる挨拶を交わして、この先の付き合いがどうなるかなんてものは時間に任せておこう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?