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化学的去勢の倫理的問題とその論点について

はじめに
一般的に性犯罪者の再犯率は高いと言われている 。これに反して、令和元年のデータによると性犯罪の再犯率が刑法全体と比較して高いことを示す数値はみられない 。これは、再犯防止のための様々な施策が導入されていることが理由かもしれない。たとえば日本においても、認知行動療法を基盤にした処遇プログラムが導入されている 。これに対して、諸外国に目を向けてみるとこのような教育的プログラムに留まらず、身体的な介入を用いて再犯防止を試みる方法がある。その方法は化学的去勢(chemical castration)というものである 。化学的去勢とは、抗アンドロゲン薬を注射や錠剤によって投与することで、性的欲求および性機能を思春期前の水準にまで低下させる治療である 。化学的去勢は、欧州やアメリカの一部の州などで実施されている。ある調査では、化学的去勢を受けた者の性犯罪再犯率は、受けていない者が50%であったのに対して1%から5%程度にまで低下したと報告されている 。とはいえ、再犯防止を目的とした化学的去勢が効果的なものであるのかは、調査対象者数の少なさや偏りがあるため、明確な結論を出すことができないのが現状である。本稿では、このことを考慮しつつ化学的去勢の倫理的問題に関する議論を紹介し、その論点を整理することを目的とする。その際、以下のような手順をとる。第一に、化学的去勢のバリエーションを紹介する。というのも、導入されている国や地方の法律によって、細かい違いがあるためである。次に、化学的去勢に対する反対論を挙げ、それぞれに対する反論を見る。最後に、それらの議論を通して示唆された論点を提示し、今後の議論の方向性を決定する。

概要
化学的去勢は、それが認められている国や地域によってバリエーションがある。これらの差異は、以下の点における差異である。1)どのような薬物を用いるか。2)どのような人が対象か。3)対象者の任意の選択か、あるいは強制的なものか。4)処置を行い続ける期間はどのような基準で誰が決定するか、という点における差異である。
化学的去勢に用いられる薬物は、欧州や中東そしてカナダでは主に酢酸シプロテロン(cyproterone acetate; CPA)が、アメリカでは主にメドロキシプロゲステロン酢酸エステル(medroxyprogesterone acetate; MPA)が用いられる 。これらはいずれも抗アンドロゲン薬である 。これらの抗アンドロゲン薬以外には選択的セロトニン再取り込み阻害薬(selective serotonin reuptake inhibitors; SSRI)が用いられる場合がある。この方法は一般的な化学的去勢とは異なりSSRIのもつセロトニン(神経伝達物質)の作用を調整して性衝動を抑制する効果を利用することで治療を行う 。
次にどのような人が化学的去勢の対象になるのかについてだが、いくつかの条件がありそれを満たした人物が対象になる。例としてカリフォルニア州の場合を挙げてみよう。カリフォルニア州では、州法第 645条第(a)項において、同条第(c)項に定めた罪で初めて有罪判決を受けた者について、被害者の年齢が13歳未満である時には、MPAやそれと同等の薬物による治療を受ける対象になると定めている 。また、それらの罪について2度有罪判決を受けた場合、つまり再犯の場合についても同様である。カリフォルニアにおいては、医師による判断は必要ない。具体的には、医師によるパラフィリア障害であるかの診断や、医学的な安全性に関する判断は必要ない。すなわち、上述の条件を満たすものであれば誰でも化学的去勢の対象になりうる。
一方で、ルイジアナ州では事情が異なる。化学的去勢の対象は性犯罪者全てではない。というのも、MPAによる治療の際には医療専門家による判断が必要なためである。つまり、化学的去勢の処置を受けるためには、医学的に適切かどうかの決定がなされ、不適切であった場合にはMPAによる治療は受けられない 。したがって、化学的去勢はその対象になりうるかどうかの判断の際に医学的な考慮が入るのかどうかによってもその態様が多様になるということである。
化学的去勢が対象となる人物の任意の選択か、強制的なものなのかも各国の制度によって異なる。先に挙げたカリフォルニアでは、初犯の場合は裁判所の裁量によるが、再犯の場合は強制的なものになる。ルイジアナでは、医師が化学的去勢の対象になりうると判断した場合は、その治療を受けるかどうかの選択をすることができる。かりに、受けることを選択した場合は、保護観察処分、仮釈放、執行猶予あるいは減刑を得ることができる 。逆に、化学的去勢を受け入れることが、仮釈放のための必須条件となっており、同様の法が定められている国も複数ある。また、化学的去勢を認めているヨーロッパの多くの国々では、その多くが選択的なものとしている 。
最後に、化学的去勢という処置を行う期間も多様である。カリフォルニアでは、仮釈放の1週間前から矯正局(Department of Corrections)がこれ以上必要ないと判断するまで行う。フロリダの場合は、刑務所等の施設から釈放される少なくとも1週間前までに開始し、その期間は裁判所が指定する。結局のところ、治療期間は各国の裁判所や当局の裁量によるところが多い。

議論
以上の前提知識を踏まえて、化学的去勢に関する倫理的な議論を概観したい。その際、最初に反対論を挙げ、その後で賛成論を挙げることとする。というのも、化学的去勢に関する主要な賛成論のほとんどは、その反対論に端を発して形成されてきたものであると考えられるためである。また、化学的去勢はそれが認められている国や地方によって、上で述べたような差異に起因するバリエーションがあるため、どのような類の化学的去勢に向けられた反対論あるいは賛成論なのかに注意する必要がある。

インフォームド・コンセントの不成立を根拠とした反対論
化学的去勢に反対する立場として、インフォームド・コンセント(informed consent; IC)の不成立を根拠にしたものがある。この反対論は、化学的去勢が選択的であり、かつそれを選択することが減刑や仮釈放の条件である法制度を対象としている。ICの不成立を根拠にして、化学的去勢に反対する論者の代表としてはグリーンが挙げられる。とりわけ、グリーンは自発的な同意(voluntary consent)という点に着目してICの不成立を主張する。彼は以下のように述べる。

自発的な同意は、選択を自由にできるという能力に依拠する。[…]有罪のレイプ犯は2つの選択を迫られる。一方では大変に長い禁固刑や最悪の場合は死刑、他方はデポプロベラ(Depo-Provera)[MPA]や外科的去勢(surgical castration)かである。そして、このような状況は選択をする際に自由であるとは言えない。罪人の自由の喪失は、彼の自由なそして自発的な選択を不可能にさせることができる。しかし、そうした状況に置かれなければ選択していなかったかもしれない代替案[化学的/外科的去勢]に同意するよう強制される。このような状況下において、人々は「自らの身体を差し出す」ようになる 。

つまり、自らの自由が奪われそうになったとき、人々は自発的な同意能力を喪失してしまう。化学的去勢を選択しなければ、重罰が課せられる際に選択の自由はない。したがって、犯罪者は自発的な選択をする能力がないためICは成立しない。
自発的な同意能力の欠如という点に限らず、犯罪者は自分がどのようなリスクに対して同意しているのかを理解できないという点でICが不成立であるとする主張もある。たとえば、ハリソンは薬物の長期的な効果や副作用はいまだに明らかにされていないため、犯罪者はリスクを知ることができないと主張している 。実際、MPAの副作用として体重の増加、血圧上昇、悪夢、発汗、骨密度の減少、気分異変、不眠、疲れやすさなどが報告されている 。とはいえ、長期的にどのようなリスクがあるのかについては不鮮明である。そのため、リスクが明らかになっておらず、それを説明することができないという点においてもICは不成立かもしれない。

反論
ICの不成立に反論する論者としてはドゥグラスらがいる 。彼らによると、化学的去勢に同意の不成立によって反対することは不正である。このことを論じるために、彼らは医学的な侵襲の際にどうして同意が必要なのかについて説明している。同意は患者の自律(autonomy)のために必要である。自律とは以下のように定義される。すなわち、患者が自分の人生/命をコントロールすることである、と。同意能力のある成人に、有効な同意なしに医療施術を行うことは、当人の自律を脅かすため不正である。つまり、同意は個人の自律を守るために必要なものである。
一方で、化学的去勢は自律を強めることができる。その際、ドゥグラスらはジェレミーという55 歳男性の仮想事例を提示する。ジェレミーは、少年に対して強制性交を行った罪で服役しており、2 度目の服役である。というのも、彼は以前に同じ罪状で有罪になり服役している。このような人物になってしまった事実を彼自身が恨んでおり、被害者に対しては謝罪の感情もある。自身の内に湧き上がる性的欲求を鬱陶しいもものだと考えている。しかし、そのような性的欲求を5分以上抑えることができないでいる。それでもなお、彼は抵抗するがやはり欲求は現れてしまうので、なによりもまずこのような状況から解放されたいと願っている。そこで、彼は仮釈放の条件として化学的去勢を選択した。すると、今までのような欲求や衝動はかなり弱くなった。その結果として、彼の精神は性的な事柄で満たされなくなり、多様な人生設計を描いたりそれに従事したりできるようになったのである。
この事例において、ジェレミーの性的欲求はそれ自体として自律を阻害するものであったと言える。そのような欲求を化学的去勢によって除去することは、彼の自律を強めることになる。つまり、ジェレミーが有効な同意をできないことを根拠に化学的去勢を選択させないことは、逆説的に彼の自律を制限していることになる。以上が、ドゥグラスらが行った反論である。彼らの議論の特徴は、ICの目的を自律の保護と捉え、化学的去勢は同じ目的を達成するどころか、自律を強める働きがあると主張するところにある。

刑罰を治療と解釈することに異議を唱える反対論
この反対論は、化学的な去勢が任意か強制か関係なく、化学的去勢それ自体に反対するものである。マイヤーとコールは、化学的去勢という選択肢を与えたりあるいはそれを強制したりすることは、犯罪者に「健康問題」という言い訳を与えることになり、自らの行為に対する責任を受け入れさせることができないと述べている 。また、このようなことが進むと、社会としては性犯罪を犯した人は罰するべきではないという風潮が高まりかねない 。
この反対論は、ICの不成立を根拠とする化学去勢への反対論と同じ前提に立脚している。それはすなわち、化学的去勢は治療として解釈されているという前提である。そして、先に見た反対論が、化学的去勢が治療であるためにICが不成立であってはいけないとしていたのに対し、今見ている反対論は、そもそも化学的去勢を治療と捉えることが犯罪者に言い訳を与えてしまうと考えている。以下で見るように、これに反論するのは、化学的去勢を治療ではなく刑罰と捉える立場である。

反論
刑罰として課されるべき化学的去勢が治療と解釈されているという前提について、フォースバーグとドゥグラスは法の解釈に基づいて反論している 。彼女らによれば、化学的去勢の目的は医療目的ではなく、処罰目的で行われている。彼女らは、化学的去勢のそもそもの意図は何かを特定する作業を行う。意図を特定するために次の4つの考慮が挙げられている。1)化学的去勢がどのような組織のもとで実施されるか。2)それが実施されるにあたり満たされるべき条件。3)それが実施され続ける期間。4)どのような用語でそれが説明されているかである。具体的には、化学的去勢が定められている法律に着目し、これら4つの考慮からその意図を特定している。
ここで彼女らは、カリフォルニアとイングランドおよびウェールズの法律を参照し、4つの考慮に基づいて意図を特定しているが、ここではカリフォルニアの州法を例にとろう。1)については、裁判所の判断のもとで化学的去勢が実施されること、2)についてはそこから利益を得ると期待される犯罪者に限らないことを示している。つまり、かりに化学的去勢が治療であるならば、1)については病院や医師のもとで行われるべきものになり、2)については医者が利益とリスクを比較したさいに、利益の方が上回ると判断された者だけが対象になるはずである。3)についても、化学的去勢がこれ以上必要ないと思われる者にも、薬物の投与はされ続けられ、4)については「刑罰」という用語が説明に用いられている。このことから、少なくともカリフォルニアにおいて、化学的去勢は治療目的で用いられているわけではなく、処罰目的で行われていることになる。つまり、カリフォルニアやイングランドおよびウェールズにおいては、上で挙げたようなICに関する反対論や、責任に関する反対論はそこまで有効ではない。

神経的矯正に基づく反対論
化学的去勢を神経的矯正(neurocorrectives; NC)の1つと解釈し、それに反対する反対論もある。その論者の代表としてはシャウがいる。NCは、しばしば以下のように定義される。すなわち、犯罪者の更生を促進する目的で当人の脳に化学的あるいは物理的な影響を直接的に及ぼす薬物や侵襲である、と 。この定義に従えば、化学的去勢はNCの1つであると解釈することができる。事実、シャウ自身もNCについて論じる際に、化学的去勢を念頭に置いているようである 。そこでこの節では、シャウがどのようにNCに反論しているのかを概観する。というのも、そうすることで間接的に化学的去勢に反論していることになるためである。もっとも、彼女のNCに対する反論は、同意がない(nonconsensual)NCに限られているため、化学的去勢についてもそれが強制的に実施されるものに限られる 。
彼女によると、強制的なNCは犯罪者に対する軽視(disrespect)を表出する(express)。 軽視というのは、以下のように定義される。すなわち、ある人を軽視するとは、当人に関しての否定的なかつ誤った表象を表出するものである、と。次に、どうして軽視することは不正なのかについて説明する。このことについて、シャウは2つの悪さを提示している。第一に、軽視された当人に対しての危害と、その人の同じ性質をもった人に対しての危害である。第二に、NCによってある人を軽視することは、それ自体として、すなわち危害が不在の場合でも不正である。その理由としては、誤った表象の表出を差し控えることの道徳的理由があるためと述べているように思われるが、この理由については曖昧である。
 最後に問題となるのは、どうして化学的去勢を実施することが、軽視を引き起こすことになるのかという点である。この点について彼女は、身体的な侵襲や、精神状態を変化させることにより身体的的権利または精神的統合性(integrity)に対する権利が侵害されることで、性犯罪者にはそれらの権利がないことが表出されるためであると述べている 。
シャウの反対論をまとめよう。彼女によれば、NCや化学的去勢は犯罪者を軽視する扱い方であるため不正である。というのも、それらは彼らの身体的または精神的統合性に対する権利を侵害するものであり、これらの権利が彼らにないという表象を表出してしまう。軽視することは、当人や当人と同様な性質を持つ人にとって危害であるし、それ自体として悪いものでもある。

反論
デ・マルコとドゥグラスは、シャウの議論は循環論に陥ると述べている 。以下のように問答してみればそれが明らかになる。どうしてNCあるいは化学的去勢は犯罪者を軽視する扱いなのか。それは、統合性に対する権利を侵害することが許容されているためであり、本来は許容されるべきでないためである。どうして許容されないのか。それは軽視することになるためである。つまり、最初の問いに戻ってきてしまい循環することになる。
さらに詳しく見ていくことにしたい。化学的去勢によって表出されるメッセージは、統合性に対する権利の侵害が許容される程度にまでその権利が弱まっているというものである。もしこのメッセージが真であるならば、このメッセージは犯罪者に対して否定的かつ誤った表象を含んでいないことになる。したがって、化学的去勢という行為は犯罪者を軽視している行為ではなくなる。もし行為が軽視するものでなければ、シャウの議論は極めて重要な前提を失うことになる。
反対に、このメッセージが偽であるとしよう。すなわち、統合性に対する権利が弱まっていないがゆえにその権利が許容されない形で侵害されているとしよう。その場合、侵害が本来は許容されないのに、許容されているという否定的かつ誤った表象を含むことになる。そうなると、化学的去勢という行為は軽視する行為になるだろう。しかしながら、この議論を説得力のあるものにするには、統合性に対する権利の侵害が許容されないものであることを示す必要があり、それは表出主義的な議論をひとまずわきに置きながらなされる必要がある。

ここまでのまとめ
これまで、化学的去勢に対する反対論とそれの反論を見てきた。最初の反対論と2つ目の反対論は、化学的去勢を治療として捉える前提に依拠したものだった。最後の反対論は、化学的去勢を神経的矯正という行為に回収し、それに反対することで生じたものだった。また、化学的去勢のバリエーションに起因して、あるバージョンには対応するが、それ以外のものには対応しない議論というものもあった。以上のことを踏まえたうえで、次節では論点の整理を行うこととしたい。

論点整理
論点整理は、以下の手順で行う。最初に化学的去勢が犯罪者の任意の選択よって実施される制度の場合の論点、次に選択的か強制かに限定されない論点、最後にそれが強制的な制度の場合の論点を挙げる。
犯罪者の任意の選択によって実施される化学的去勢の場合は、上での議論のうちICの不成立に関する議論が当てはまる。この反対論に対して、ICを自律の保護に貢献するものと捉え、むしろ化学的去勢は自律を促進する働きがあることを示した議論を紹介した。ICの不成立に関する議論は、化学的去勢の目的を治療であると想定したものである。その背景には、性犯罪者は病に罹患しているという価値観がある。たとえば、以下のフィッツジェラルドの一節はこのことをより強調する。

自らの行動を制御することができないような、持続的な生理学的あるいは心理的状態の結果として[犯罪]行為をしてしまった個人に対しては、治療をするべきであり、罰するべきではない。

彼の観点からすれば、性犯罪以外の犯罪も治療の対象に含まれてしまうが、性犯罪に限定した時、彼らは病人と言えるのだろうか。しかしそうであるとすると、化学的去勢は選択的なものではなく、強制的なものであるべきかもしれない。例えば、あるウィルスに感染した人がいたとしよう。このウィルスは致死率と感染力がともに高く、他人に感染させた場合は危害を加えることになる。もし、この感染症に対する治療がすでに確立されていて、完治が約束されているとしたら、感染者はその治療を受けない権利があるだろうか。論者の考えでは、この事例だと感染者の自由や選択を制限し、強制的に治療することが望ましいと考える。すなわち、性犯罪者がこの事例の感染者にあたるならば、彼らに選択する余地はないのかもしれない。
いずれにせよ、性犯罪者は病人であると言えるのか、そうであるとすればどのように治療すべきなのかといった問いに答える必要があるということが示唆される。もう一つ重要な点としては、性犯罪を犯した人は、もはや犯罪者ではなく患者になってしまうということが挙げられる。これは次の論点にも関わってくる。
次に選択的か強制かに限定されない論点については、2つ目の反対論が挙げられるだろう。これに対する反論を考慮すると、その論点は化学的去勢が治療として解釈されているのか、あるいは刑罰と解釈されているのかというものになる。しかしながら、この論点はいまだに事実判断の域を出ていない。むしろ、考えるべきなのは、化学的去勢は治療として位置付けるべきなのか、あるいは刑罰と位置付けるべきなのかという点である。しかし、論者としてはこのような二項対立にしなくても、刑罰の範囲内に問題はおさまると考えている。このことは、刑罰の目的を考えると明らかになる。というのも、化学的去勢は何らかの目的を達成するための手段でしかない。そこに刑罰の目的を据え置くならば、その目的の1つである更生は、化学的去勢をその手段として位置付けられるかもしれない。したがって、この議論で示唆されたのは、刑罰の目的を考慮し、その手段として化学的去勢を位置付けることによって、刑罰の枠内でその妥当性を考えられるということである。
最後に、NCについてであるが、これはかえって上で挙げたような重要な問いを隠してしまう恐れがある。というのも、NCは広範な概念であるため、性犯罪やそれに対応する化学的去勢に限定されない。それゆえに、個別的な議論ができなくなってしまい、重要な論点を見逃してしまう可能性がある。事実、シャウが反論されていたように、最終的には化学的去勢を実施し、性犯罪者の統合性に対する権利を奪うのはどうして不正なのかを説明する必要がある。このことは、性犯罪者に限定された論証にならざるをえないし、むしろそうすべきである。したがって、論者としてはNCという広範な議論に移行せず、あくまで化学的去勢単体に対するものとして今後の議論は進めていくべきだと考える。

おわりに
本稿では、化学的去勢の倫理的問題における論点を整理することを目的とした。その際最初に化学的去勢の概要を説明し、国や地方によってバリエーションがあることを確認した。その後で、反対論とそれに対する反論を確認した。最後に、論点を整理するとともに、議論から示唆されたことを明らかにした。化学的去勢における論点は、それを治療と解釈するべきか、あるいは刑罰と解釈するべきか、というものではなく、刑罰の目的として化学的去勢が望ましいものなのかどうかである可能性が示唆された。とりわけ、刑罰の目的を犯罪者の更生であると考えるならば、化学的去勢をその手段として位置付けることができるかもしれない。しかしながら問題も残る。化学的去勢が、刑罰の目的を達成するための手段として位置付けられる可能性はあるかもしれないが、その手段が妥当なものであるかの検討はできていない。日本で行われているような、認知行動療法を基盤にした処遇プログラムが手段としてよりよい可能性もある。したがって、手段の妥当性を検討することが今後の課題である。


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