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「リーダーは、偉くない」時代

皆さんこんにちは。作曲家で音楽プロデューサーの齊藤耕太郎です。

去る、9月2日(水)14:22~23は星読みでいうところの「魚座の満月」だそう。東京都内ではその時間の前後から突然、局地的な大雨、雷鳴が鳴り響きました。いきなり何の話だよって感じかもしれませんが。

実は、アルバム「VOYAGER」はじめさんと作るにあたり、僕らは昨年の年末年始にお世話になっている方からとあるお話を聞きました。

僕らが「Hello」「Mother Spaceship」「Waterfall」そして「Evergreen」など、宇宙の心理や自然の雄大さを慈しむ楽曲を作ってきたことの背景には、このグレートコンジャンクションを知ったことが大きく影響しています。僕自身は基本的に極めて現実主義者。でも、ここ半年間で僕の身に置きた出来事たちを振り返ったり、伊勢神宮での日本の三大年中行事「月次祭(つきなみさい)」を訪れたときの霊的感覚など、確かに宇宙から何か発振されているメッセージは存在している、そう信じています。

上の記事で書かれている「風の時代」と呼ばれる新たな時代。9月2日の14:23に都内に降り注いだ豪雨と雷鳴は、これまでの価値観を「浄化」し、新たな時代の訪れを示してくれた「禊の雨」だと僕は解釈しました。


「既存の安定した生活の終焉」
「個人と個人の意思決定で進んでいく未来」
「”感覚”で意思決定する慈しみ」


を強く感じている僕にとって、これまでの人生で培ってきたチームビルド、人への提案、はたまたいつもの会話に至るまで、このコロナ禍で考え方が大きくアップデートされました。

本来、薄々「なんか自分の意思決定に違和感があるなぁ」とか「本当に自分の中で納得いく決断だったのかな」と思えつつも目をつぶってきたことの全てに、根本から向き合う必要があった半年間。

悩み苦しんだ時期もありましたが、今はとても気持ちが晴れやかになりました。僕らのアルバム「VOYAGER」そして今後リリースしていく様々な作品や情報すべてに、この考え方が息づいています。今日は皆さんに、今の僕が大切にしている感覚や考え方を紹介します。


集団における「リーダー」の存在意義

人には、潜在意識レベルでの「適材適所」があります。皆さんそれぞれ、特に社会人として企業などの集団に入ると、年齢や経験によって様々な仕事を行いキャリアを積むのが一般的ですよね。その中で結果を出した人が出世し、出征した人がリーダーとして集団を率い、集団を率いる規模が大きくなればなるほど世の中では「偉い人」として評価される傾向にある。

今、その「偉い」とされているリーダー像は僕の考えと異なります。

僕は日々、豊かな音楽的才能と人柄を共存させた仲間と共に音楽を作り、世の中を希望で満たせるようにと日々奮闘しています。その集団における僕自身の役割は「プロデューサー」であり「クリエイティブディレクター」(僕は両方やっている"珍しいタイプ")

世の中のポジションで言えば「リーダー」「キャプテン」と呼ばれるものでもあります。僕は言葉の意味的に、「キャプテン=船長、艦長」かな。

コンセプトをサウンド&テキスト、場合によっては企画書として作ること、それを最高の形で叶えられるチームを都度つくり、誰にどの順番でどう声をかけ、実際の制作過程においても都度必要に応じて任せるところ、自分自身が手を動かしたり立ち会ったりを判断するなど、僕らが生み出す作品の全工程を見ることがほとんど。

骨子にあるものは「クオリティ(予算もこの範囲)の管理」「メッセージの開発と発信の統括」です。ここをしっかりやらないと、ただ五月雨式に楽曲やコンテンツを世の中に流布させてしまうことになり、情報化社会に誰の何の役にも立たない「数分」を余計に生み出してしまうことになりかねない。かなり厳しい決断をしなければいけない時もあり、そういう時は気持ち的にもなかなかしんどいのが正直なところ。


「リーダー」は職種の一つでしかない

でも、その責任の重さゆえに、多くの人が勘違いするし、しがちなものであった価値観。「リーダーは意思決定ができる」「リーダーは他の誰よりも偉い」「リーダーは集団を思いのままに操れる」は、大いなる誤解です。

むしろ、実際のところは真逆です。

わがままを言えない(言って許してもらえる程度外のもの)
人の言うことを根本的に感じ取り、聞かなければいけない
自分の発言に責任を持たなければいけない
基本的に、あまり人に悩みを言えない
一番優しくなければいけないし、一番冷酷じゃなければいけない

はっきり言って、多くの場合、リーダーになるメリットより背負う責任の方が大きすぎて、まとめること以外は自分では抱え込めなくなるんじゃないかと思う。別にみんなが僕のことを「キャプテン」と呼んだことはないけれど、気づくといつも僕がこのポジションを任せてもらえることが多い。

だから、もう自分は「キャプテン」なんだと自分に言い聞かせるようになりました。そこからは逃れられないんです。

ここで重要なのは、「今は」僕自身がキャプテンになりたいとか、みんなの中心でいたい、と思っていないことです。

愚かだった昔はそう思っていたと思います。
でも今は違う。
一方で、「放っておいて欲しい」自分もいる。

僕だって自分の創作活動がしたいし、自分の将来のことも考えている。基本的には僕は自由人性格だし、正直フリーランスで音楽やっているって言うのに社長みたいな決定を何度もしなくてはいけないのは創作者として面倒だし責任過多。利害で言えば、メリットなんて正直ないことがほとんどです。

でも、僕は今思うんです。
僕は「導く」「決める」「成果を出す」しかできないんだと。
それが一番得意で、逆に他のことはできないんだと。

僕はこれって、生命としてこの世に産み落とされたことに対しての「役割」だと思っています。逆に他のポジションは、僕にはできないんです。

僕と関わったことがある人はよーく知っていますが、僕は「実際の進行」になると皆にものすごく迷惑をかけてしまう。遠くの未来は見えていても、いざ進行するとなると細やかな進行管理は基本的にめちゃくちゃ苦手です。

(皆へ いつもごめん。)

一応、広告代理店の営業をやっていたので、ビジネス上の仕切り的なものは人並み以上にできるつもりです。でも、特に制作進行における「連絡、伝達事項の共有」が本当に苦手。最近も、大事な現場に二度も忘れ物をしてしまい、迷惑をかけてしまった。本当に申し訳ない。気をつけます。


全ての人間関係は、相対比較で考えちゃダメ

今年に入ってすごく身の回りで感じることは、人間同士の関係性やチームワークというものは、相対的なパワーバランスで成り立り立たないこと。

同じポジションを争って、実力やパワーの大きい者が
そのポジションに就く、というチームは破綻しやすいんです。

必ずしも、誰かを従える(僕この言葉本当に好きじゃないんですけど)人が誰かより上の立場、という感覚がそもそも間違っていると僕は思っているのですが、全ての人には元々、その人がもっとも向いている生き方があると僕は考えます。それは能力的なものではなく、例えば僕で言えば

営業経験がある
音楽を作ることができる
企画を行える

みたいなスペック的な能力ではなく、その人が本来もつ「居方(いかた)」に気がついているかどうか。そして、そのポジションにいるときに、本人が心から楽しそうにしているかどうか、という点です。

この「楽しそうにしているかどうか」を、僕はみんなが一緒にいるとき、何よりも神経を注いで全員を観察します。楽しそうにしていない人がいるとき、その原因を必ず後から深く考えるようにしています。

色々考えて、行き着いた僕なりの結論があります。楽しくない人がいる場合、ほぼ8~9割で責任は「その場に誘っている僕」にあるんです。

人は自分との能力比較をどうしても行ってしまう生き物。
それは生存本能からくるものかもしれませんが、
人格的な魅力が似通っている人同士が同じ役割を集団内で求められると
どちらかが自分の存在意義をより主張したがってしまうんです。

誰かが、無駄に自己主張していると、明らかに「空気」がおかしなことになります。それは日本人の皆さんなら特に分かるでしょう。

その人の人格的な魅力を自ら誇張表現しようとしている様は、その場のムードを大きく逸脱しすぎて白けてしまったり、逆に「この人、自信ないのかな」と周囲に感じさせがちです。

高級寿司屋のカウンター席の横で、お色気溢れる女性を横に座らせて「俺は常連だ」アピールで大将に上から目線で批評しているオッサンとかまさにそれ。「あ〜今日も、本当に美味しい。いつも、素敵な時間をありがとうございます。」で、充分に伝わるのにね。

かくいう自分も、そういうことを言ってしまいがちな節には気づいていて。

特に、魅力的だと感じている異性を前に、勝手に「自分の方が劣っている」と感じてしまっている相手を前にすると、僕の場合は黙るのではなく緊張を感じさせないために思ってもないことを発言してしまいます。「誰かに自分の何かを一生懸命伝える」ときに、なぜか空回りしてしまうのは、人間関係を相対比較してしまっているからなのかなと感じています。


音楽を作る前の儀式「同釜(おなかま)」

再三色んな場所で話していることですが、僕はホームパーティを心から愛しています。僕の人間関係の中心は、ホームパーティで成り立っています。

最近は、ヴィーガンの友達ができたことをキッカケに、全編植物由来のヴィーガンパーティも料理対応できるようになってきました。とにかく、ホームパーティをすると、呼んだ人たちの人格がよーく浮き彫りになります。

音楽を作るという行為は恋愛に似ていると僕は思っています。
そして、料理と恋愛は非常に親密な関係にある。

その人が美味しいものを食べたときにどういう「素」の表情、そして「素」の感想を伝えようとしてくれるのか。それは恋愛における情熱の熱量、ひいては芸術作品を生み出す時の「才能同士の重なり合い」を作り出していく上で非常に大きく影響します。

味の質感、人間同士が放つバイブレーションが紡ぎ出す、
その瞬間その人たちの組み合わせでしか生まれない
オリジナルのムード。

その人がどんな本質で感情の高揚を迎えるのかが見えた瞬間が、その人のことを一番信頼できる瞬間でもあるんです。その色がどんなものであるかによって、僕はその人との「居方」の距離感を決めて音楽を作ります。場合によってはそれとなく、話自体を流してしまうこともあります。


僕は毎回、音楽を作るとき、料理を作ってみんなで楽しむ時、どういう流れを作ってどう会話を導いていけばその人の絶頂の瞬間を目の当たりにできるか、企画の段階からものすごく深く考えてメンバーを募ります。

もちろん、恋愛でもね。


ホームパーティという僕にとって極めてプライベートな空間に呼びたいと思える人たちを選ぶ時点で相当な選別をします。

でも、この時はまだ、相手のことを「相手の言葉で聴けていない」段階なことも多々。会った時の空気感でピンときた人には、「良かったら今度うちでみんなでご飯食べましょ」って声をかけます。そのときに「え、行きたいです。」って言ってくれる相手の声の質感や目の輝きで、実際に企画するかどうかを探ったりすることもあります。


そこで来ない人とは、とりあえず「今は」縁がない。
だから、絶対にそれ以上自分から無理やり追わない。
相手に対しても迷惑かもしれないですしね。


いざ、日取りが決まったら、今度は呼んだ人たち皆の顔を思い浮かべながら、相手が苦手な食材のことも聞きつつ、僕の身の回りで「この人とこの人が合う」と明確に定まりそうな相手にも声をかけます。

二三、候補をもらって日程調整する場合もありますが、基本的に全ては「Reason」という名の縁で最初からその日にその人たちは出会うと決まっていると僕は考えるので、特に超多忙なはじめさんは9割方、なぜか後から連絡しても「空いてる。」と返事がきます(笑)巨匠、本当に忙しい人なのに、不思議なんですが大事なタイミングはいつも空いてるんですよね。


季節。気温。時間帯。集まる人の好み。
全てを勘案して、作る料理を決める。

まず、一番大事なのは「僕(僕ら)らしい空間を作ること」です。相手が誰であろうと、振舞う時の絶対条件は「自分らしくないもの、ことは絶対にしない」「自分主体で考えること」です。これから深い仲になるかもしれない相手に対して、最初から相手主体で物事を考えたら長続きしませんから。

日取りが決まったら、なんとなく僕は週間天気を見ながら当日を迎えます。その日の気温や天気、開催する時間帯によって作るものを当日の朝まである程度変更可能な仕様にしておく。暑い日に前菜を熱くしないためにとか。

逆に前日から仕込む系(魚の漬けや昆布絞め、あんまりやらないけどコンフィとか)はきちんと、開催時間帯から逆算して必要な下ごしらえをしておきます。ドタキャンしてきそうな相手の場合は、お米を炊き出す1時間前までは融通が利くメニューしか出さないなど、色々ロスを出さないよう工夫。

俺、何屋だよ(笑)

で、その日集まる人がお酒を飲む人なら、何を持ってきてくれるだろう、という視点も加味しながらメニュー進行をします。ノンアル会の場合はいっぺんに炭水化物系まで出した方がいいし、お酒の場合はゆっくりと進行しつつもメニューによって一瞬お米を挟めるよう準備だけはしておく。


音楽も恋愛も何もかもそうですが、いい時間を作るとき、人の関係性が深まるときって、「一瞬たりともそのムードから意識を外に向けない空間づくり」が何よりも重要です。フォーマットなんて絶対に作れなくて、組み合わせや当日の波動次第で、瞬時に路線変更できる柔軟さと確固たるコンセプト、硬軟一体の進行が必須なんです。

そこまで追求して、さらにゲストが帰った後、主幹事だけで毎回「反省会」をやります(笑)今日はこの瞬間に空気が壊れかけた、次回はそうならないように事前にここをこうしよう・・・とか。

そして、来てくれたゲストの方々の魅力的だった一面を確認しあったりしながら、「〇〇をコンセプトに音楽作ったら面白いかも」と楽曲制作の種が生まれるのです。僕らのコラボは、ほぼそれで計画され、動き出します。


チームを大きくすることは目的じゃない

これを履き違えると、チーム自体の管理体制の追求をしてしまいがちです。自由にコラボレーションしたり、新たなプロジェクトが生まれることより、「やってはいけないこと」の方が増えてしまうチームは、僕は要りません。

大切なのは、僕らが世の中に届ける「メッセージの芯の太さ」です。

規模や影響力、権力や権威が美徳とされる「地の時代」はもうすぐ終わります。リーチ、フォロワー数、視聴率や売上、資金調達額など、メディアが報道する情報の見出しはいつも「より普遍的に価値が見えるもの」に寄りすぎました。(僕もそれに合わせて散々やったけど)

今、一番届けるべきことは、僕らが伝えたいこと、楽曲やその他作品を通じて届けたい「想いの強さ」そのものです。チームだってそう。大企業だから安心、高収入だから将来も不安がない、そんな価値観は、ご覧の通り崩れていますよね。


「みんなが聴いてるものだから、好き」って、
あなたは本当に心の奥底からそう思えていますか?

本当に好きなもので繋がる関係って、最高ですよ。
しかも今は、SNSを通じて「想いの強さ」をストレートに表現できる。
興味ある人のこと、「検索」さえすれば見つけられるんです。


そりゃもちろん、僕は一人でも多くの人に自分のメッセージを届けたいし、それに伴い潤沢な資金が回ればより、表現に対して豊かになれるし、何より自分だけでなく周りの才能あふれる皆の生活も豊かにするチャンスが生まれる。だから多くの人に届けていくことを目指すことは、大大前提。

でも、そのために「メッセージの開発や表現に妥協する」「チームをまとめていくことに尽力し出して、メッセージが産めなくなる」みたいな状況だけは作りたくありません。人で人生を豊かにしてもらって来た僕が、勇気を出していいます。一番大事なのは人間関係より、「生まれるメッセージ」の方なんです。僕はそこのみを追求する覚悟が決まりました。

人からよく思われたい一心の自分だってまだ、心の奥底にはいると思います。でも、本当に大事なのは、齊藤耕太郎が齊藤耕太郎であることで、誰かの何かになれることだと僕は今強く思う。僕が世界に対してできる、


人の魅力の種に気づくこと
その種を、他の誰かが「才能」と気づける形を作ること
その「才能」を、その人が「誰かの幸せ」に使えるよう導くこと


を、自分に無理をしない形で、これからも追求していきます。あくまで自分が一番、僕自身の中心にいる状態で、です。他の誰かのことを想いながら、自分が自分の中心にい続けるのは本当に本当に本当に本当に難しい。でも今は、僕の仲間たちが精神的に寄り添ってくれる。だから僕は自分の魅力だけを信じて「キャプテン」としての在り方を全うします。


風の時代。
物事が一気に、新しい空気に包まれ、動いている実感。
変化を楽しめるみんな、優しく豊かな世界を作っていきましょうね。


齊藤耕太郎 / Kotaro Saito


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