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タイトル「考え中」#1〜創作大賞応募用〜

「足を止めてはいけない」と自分に言い聞かせて、ただただ歩いた。歩いて、疲れて、スピードが明らかに落ちる。
そのとき、止まりたくないという自分の気持ちと、止まったら絶対にダメという誰かに決められたようなそのルールと、止まってみたら?という私の心の声と、その三つの声の間で、私はゆっくりと歩き続けた。

3時間前

母が死んだ。病院で。
私はずっと母に死んでほしいと思っていた。悲しいとか、寂しいとか、そういう感情は何も起こらなかった。でも死んでほしいと願っていたのに、うれしいとも思わなかった。ただこれで終わったと思った。母が死んだことで、母を恨む自分も、母から言われて嫌だったことや、されて嫌だったことを思い出すことも、もうない。そんなことしなくていいのだ。だって母はもういないのだから。私は解放されたんだと思った。
そしたら急に走り出したい気分になって、病院を出て走った。
でも普段から運動をしていない私が長く走り続けられるわけもなく、すぐに歩くことになった。

8時間後の喫茶店

「喫茶リエ」と少し先に黄色の電気が灯った看板がある。スナックなのか普通の喫茶店なのか、看板の雰囲気は普通の喫茶店。でも名前からの雰囲気はスナック。そんなどっちつかずな印象がやけに気になって、お店を通り過ぎて、気になって振り返ってみたら、足は自然に止まっていた。入ってみよう。
私は結局、止まりたくない、止まっちゃダメ、止まってみたら?の狭間で、その後5時間歩き続けた。
何を考えて歩いていたのか、さっぱり覚えていない。ただやはり感情というものが何も無いかのように、ただただ歩いていた気がする。
カランと戸を開けて音がする。
カウンターに1人の女性。この人がリエさん?テーブル席が4つあって、その一つにおじさん。私はテーブル席に座った。
女性が水とおしぼりを持ってやってきた。水とおしぼりを置いて「ごゆっくり。」と言ってカウンターに戻った。

リエさん

私は注文をせず、そのままただ座り続けた。メニューを手に取る気にも、注文して何かを口に入れることも、しようという気持ちが全く湧いてこなかった。ただ座っていたかった。
1時間くらい経って、もう一度、女性がテーブルにやって来た。
「何かいりますか?」と私に聞いた。私はその女性をみて、「あなたがリエさんですか?」とたずねた。
女性は「そう。私の名前がリエだから、喫茶リエなの」と微笑んだ。
とても親しみのある優しい笑顔だった。
そのとき私は「あっ」と思った。
私は、母にこんな微笑みを自分に向けて欲しかった、と思ったのだ。
そう、こんな優しい微笑みを。涙が溢れた。
リエさんは、びっくりした顔をしたが、キレイなハンカチをバックヤードから持ってきて、渡してくれた。
今時、いかにもアイロンがかけてありそうな美しく畳んであるハンカチも珍しいと思いながら、その美しく畳まれた花のワンポイント刺繍がしてあるハンカチを受け取った。
つーつーと、私の目から流れる、量が多くない涙を、私はそのハンカチで拭いた。いい香りがした。
また「あっ」と思った。
この香り。この香りだけが、私が唯一、母で好きなものだった。
私は俯いていた顔を上げて、リエさんをみた。どこか母に顔が似ている。
小さく頷くようにして、リエさんはカウンターに戻って行った。
私はハンカチの香りを頭で漂わせながら、ハンカチの刺繍を見つめた。
何の花だろう。黄色の花。よく見ればとても凝った刺繍だった。
私の涙は止まり、ようやく水を口にいれる気になって、ぐびぐびと飲み干した。私の気持ちはスッキリしていた。帰ろう。
そう思って立ち上がり、リエさんに何も注文しなかったことを謝った。
「注文もしないで、1時間も居てすいませんでした。」というと、リエさんは「次来た時に2回分注文してね」と微笑んだ。私は「はい」と言ってハンカチを返して、店を出た。

帰り道

どうやって帰ろうか。歩く体力はもうない。もうすっかり夜。ところで一体ここはどこ?辺りで住所がわかるものを探してもたものの、知らない地名でわからない。いまさら、リュックから携帯を取り出してみる。20時まえ。
駅までなら歩けると思って、道ゆく人に駅を訪ねた。ここから歩いて10分ほどと教えてもらった。よかった。
駅に着いて、自分がどこにいるのかがようやくわかった。帰ろう。病院へ。いや、うちへ。父や弟からのものすごい数の着信とメールとLINEが入っていたが、そんなことはどうでもよかった。でも心配しているだろうと、父にメールする。「急に消えてごめん。今から帰る」とだけメールした。







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