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【陰の人生#13】私のせいだ

!閲覧注意!
 センシティブな内容を含みます。読む時には、是非自身の心の状態にお気を付けください。
 また、ある程度の検索避けとして普通の漢字ではなく「タヒ」という、ネットスラングを使用して書かせていただきますことをご了承ください。

 介護生活の詳細については以前の記事とも重複しますので、省かせていただきます。現在介護中の方、突如介護が終了してしまった方、内容的に健全なメンタルを保つには相応しくない可能性があります。
 ブラウザバックして頂いて、全然構いません! 私自身の心の整理のためだけに書いているシリーズです。(公共の場ですみません)
 不穏だ、不快だ、そう感じた時点でどうか速やかに読むのをやめてください。本当にごめんなさい。そんな風に思うなら最初から書くなよ、そう思われても仕方がありません。

 ある種の、露悪趣味です。

 結論から言うと、私がそこまで責任を感じなくても良かったのかも知れない、と思える情報と先日バッタリ出会しました。20年近く、心の奥底に溜まった冷たい煮凍りのようなものが、ようやく解けた出来事でした。

間質性肺炎

 それは、肺の組織が何らかの原因で徐々に線維化してしまい、それは不可逆性なので、いずれは肺としての機能を失ってしまう、という病気です。
 この、一連の記事を書くに当たって、何気なくこの病気について検索してみました。余命としては、急性で3ヶ月、慢性で3〜5年であることを初めて知りました。冒頭に書いた「私がそこまで責任を感じなくても良かったのかも知れない、と思える情報」というのがこれです。
 ステロイドなどの治療が、現在では様々にあるようです。

 20年近く昔の当時、私はそうした詳しい情報も知らず、ただ、祖父の行きつけの病院に定期的に祖父を連れていき特に治療らしい治療を施されることもなく、祖父がほとんど食べられない旨を告げると飲みもしないカ□リーメイトを処方されるのみでした。
 祖父は痛いのが嫌、延命も嫌、とのことで点滴も胃瘻も拒否した過去があり、母は私に「それで良い」と言いましたが、食事を作っても美味しいと言いつつほとんど食べない毎日に気が気ではありませんでした。ちなみに、カ□リーメイトも「マズイ」と言って拒否していました。

 孫の私に権限はなく、ただ、唯々諾々と祖父自身や母の決定への御使いに終止していたのですが、あの時、もっとこうしていればああしていれば、とも思ったりしてきました。
 とは言え、祖父の願いは「静かに暮らしたい」それだけでした。
 延命や治療のためにバタバタと忙しなくされるのを嫌い、自分の好きなことやりたいこと以外は一切やらない、それはもう、いっそ清々しい程にそういう人だったので、あれで良かったのかも、と20年の時を経て、自分もバタバタと動けなくなって来て、そう思うようになりました。

それでも

 私のせいだ、と思う心の棘があります。

 夏の蒸し暑い夜でした。

 山の上の古い家屋でしたので気の利いた空調設備などもなく、掛け布団をこっちかな、あっちかな、と毎日思案して調節しながら祖父に快適でいてもらおうとするのが日課でした。
 肺炎のための酸素吸入器も、祖父は煩わしがってなかなかちゃんとはやりません。鼻から管が出る見た目が気に入らないのだろうと、母などは言いました。若い頃を伊達で鳴らした祖父は、格好悪いのが嫌なのです。いくら言っても外してしまうことについて、母は「好きにさせといて」と言いました。
 布団は、少し掛ければ「重い」、少なければ「寒い」。じゃあ、これは?と入れ替え差し替えしている内に祖父も面倒臭くなって「ああ、もう良い、もう良い」と言い出す。そんな毎日でした。

 ある朝、目覚めてハッとしました。

 …寒い?

 まずは「しまった」と思いました。昨晩チョイスした祖父の布団が薄かったのではないかと思ったのです。
 祖父の寝室へ行くと、祖父が苦しそうでした。

「(アラ明日)、苦しい」

 祖父はそう言いました。
 それは日曜日の朝でした。そう、宗教の集まりのある日だったのです。
 私は言いました。

「集会から帰って来てからじゃ、ダメ?」

 と。病院へ連絡することを、です。日曜日なので、そもそも救急でなければ診てもらえません。
 集会に行かなきゃいけないのに、困ったなぁ。まず、最初に頭を過ったのが、それだったのです。

 一体、何のための宗教なのか。
 救うのは、一体、この世の、何なのか。

 祖父はもう一度、苦しそうに言いました。


「救急車を呼んでくれないか」


 一大事なのだと悟ったのは、ようやく、この時でした。私は救急車を呼び、いつもの行きつけではなく大学病院へ祖父を運んでもらう事になりました。
 救急車の中で、救急隊員の方が血中酸素濃度を測って「80?!」と叫びました。

 私があのまま、集会に出掛けていたら、祖父はタヒんでいたに違いありません。

 ですが、それでも、それからわずか数日後だったでしょうか。もしかしたら、翌日だったかも知れません。


 祖父は病院で還らぬ人となりました。


 布団チョイスの失敗。私は前日の夜、祖父と恒例のやり取りをしながら思ったのです。ああ、面倒くせぇな。って。
 あの時、面倒臭がらずにもっとちゃんと祖父とやり取りして説得して布団を掛けるべきだった。何となく、気温の落ち込みの気配はあったのに。
 日曜日の朝。何故、私は苦しむ祖父を見捨てて集会に行こうとしたのか。特に個人的に好ましい仲間がいるわけでもなく、大して代わり映えのしない話が繰り返されるだけの、あの場所に。

 私が信仰を保つことで誰かが救われるのだと本気で信じ、私は目の前の大事な祖父を見56しにしようとした。


 ちゃんちゃらおかしいわ!!!


 私のせいだ!

 私のせいだ!!

 何もかも!!!


 わ た し の せ い な ん だ


 私の見る世界は色を失って、ぐるぐると渦を巻いて、狭く小さく縮小していって、山の上の古い家屋の2階の小さな一部屋に収束し、私はその布団の中にうずくまって、ゲタゲタと笑って、涙を流して咆哮し、枕を引きちぎって、部屋にばら撒きました。
 私には昼も夜もなく、気が付くと季節はもう冬で、重い曇天から白く冷たい雪が落ちてきて、積もるほどのこともなく、ただ、本当に、冷たくて苦しくて 冷たくて


 少し、正気を取り戻した頃に録画したまままだ見ていなかったドラマを、暗くした部屋の中で膝を抱えて頭から毛布を被って、見ました。
 中居くん主演の松本清張「砂の器」。
 中居くん、良かった。演技、好きです。声も好き。別にファンとかってわけではなかったんだけど、この頃の自分に、何となくハマった作品でした。昼もなく夜もなく食事をすることもなく、ただ毛布にくるまって、一気に見ました。
 特に、感想があるわけでもなく、正直に言うと、見たという事実以外はあまり記憶がありません。映像美なテレビ画面と、綺麗な中居くんの顔しか覚えてない。あと、ドリカムの主題歌。

 認知症が進んだ祖母はその頃、母が手配した施設に入院しており、山の上の閉め切った暗い日本家屋には、独身女の私が一人、何をするでもなく、昼夜もなく、ただ時を食い潰していました。

 消えて無くなってしまえれば良いのに。

 毎日毎日、そんな風に思いながら、だからといって積極的に思い切ることも出来ずに。


 春になって、私は下の弟と一緒に東京へ出ることにしました。唐突ですが。


 幼い頃から大好きだった祖父と暮らした、思い出深い日本家屋。今でも、庭に子供用のブランコを置いててくれたこと、その庭でみんなでBBQしたこと、夏はセミを取り、冬は雪遊びをし、庭には植えない方が良いよと植木屋さんに注意されながらも桜の木を植えてしまう祖父と、その桜が咲くのを楽しみにして、毛虫が出たと大騒ぎをして、そんな他愛のない日常を思い出せます。
 こうして書いてる間に思い出が湧き出てくるほど、今でも間取りや内観を思い起こして描けるほど、大好きでした。

 そこを私は出て行きました。
 無論、母を含む祖父の子供達が相続したので住み続けることも出来ませんでしたし、住み続ける意味もなく、住み続けるつもりもありませんでしたが。

 今はもう、人手に渡っています。

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