【陰の人生#03】仄暗く湿った青春時代①
母は宗教に傾倒するようになり、父はそれに対して苛烈なまでの反応を示すようになりました。
人によっては、自身の苦しい思い出などとリンクするかも知れません。どうか、心が元気な時に読んでください。
また、うっかり読んで気持ちが暗く落ち込んでしまったら、早急にお笑いなどを摂取されますことをオススメします。
前回の記事で宗教教義について少しピンポイントに書かせて頂きましたが、そのことについて異論があるわけではありません。受け取る人によって様々に考えることが出来ますし、影響の受け方も様々だと思います。
私の場合、私の家族に起こった現象として紹介しております。また、記憶違いも多分にありそうですし、それを正しいとも間違っているとも証明する手立てがありません。
自伝的私小説として受け取って頂くのが、私にとっても貴方にとっても最良かもしれません。
教育方針の分裂
母が宗教に傾倒したことで、家庭内での両親の分裂は激化しました。
ここで特筆しておきたい事実は、何も宗教ばかりが原因ではない、ということなのです。
幼少期の記事の方に書かせて頂きましたが、そもそも、我家は最初から破綻気味だったのです。それが、母が宗教に走ったことで表面化して激化したに過ぎません。
家庭内に問題のない奥さんがこうした宗教に傾倒して入信した場合、多くはご主人も入信してニコニコと家族全員で宗教活動を行います。
逆に、ご主人や親族の説得を聞き入れて離れていく奥さん。
あるいは、奥さんが入信するのは別に構わないよ、行っておいでと見送るご主人。
大体はその3パターンで、実際にたくさんのケースを見てきました。
離婚という選択肢を取るご家庭もありましたが、それでも決断は数年以内につけられ粛々とその手続きを進める家庭が多かったです。
我家のように離婚もせず、周囲を巻き込んですったもんだの家庭内暴力を数十年に及び繰り返す家庭は、地域一帯でもなかなかのレアケースでした。もはや趣味?としか思えません。
ちなみに、両親共に70代になった現在でも離婚していません。少し前に母から「離婚しようかしら」って電話があったので「今更やめろ」と答えておきました。迷惑しかない。
ごく稀に我家のようなケースのご家庭もありましたが、そうした場合、うちと同じくまず最初に問題ありきでした。その問題を解決しないまま、新たな火種(宗教)を持ち込むのですから、炎上しないはずがないのです。
さて、私は学校の友達や近所の友達と必要以上の交流を禁止されるようになり、いよいよ暇を持て余すこととなりました。現代のように、家に居ても出来る暇潰しがある時代ではありませんでした。元々、運動神経が悪いので外でアクティブに遊ぶタイプではなく、アニメや漫画が大好きでしたが、これらも「世との交流」(世の人である作者・制作者の考え方を取り込む、交流するのと同じ事である)として制限されました。まぁ、言うて見てましたけど。
結果として、自身の内なる妄想から面白いものを捻り出すより他になくなりました。せいぜい10年かそこらの経験しかない女児には、それほどの内的ストックもありません。薄っぺらい妄想を繰り返しては、漫画や絵を描いたりお人形遊びしたりして暇を潰しました。
年の離れた弟がおりましたので、ワンオペ育児の母の代わりに弟と遊ぶというのも私の役割でした。
風呂にも入れたし、オムツも替えました。
ここで、父がこれほど頑固に反対しなければ、宗教繋がりの友達との交流を持つことが出来たでしょう。実際、信者獲得のためもあってか、よくピクニックや野外での遊びの場に我家も誘われていました。
ですが、父はこうした遊びの場であっても一切交流を容認しませんでした。私自身も野外でのアクティブな遊びには興味も楽しみも一切見出だせなかったため、行かせてもらえないことは結果オーライだったのですが、こうした経緯で私や弟達からは他人との交流を築き上げる経験というものが、極端に奪われました。
社会からの孤立です。
元々、じゃっかんコミュ障気味な性格だと自分で思っていましたし、珍しく遊びに行った場ではしゃぎ過ぎたり喋り過ぎたりして恥ずかしい思いをして母に「みっともない」とか「恥ずかしい」と叱責されることも少なくありませんでした。人との距離感をうまく掴めずにいましたし、今でもなかなか難しいとは感じます。
ですが、大人になって自由に人付き合いをするようになって気付いたことは、私は別にそこまでひどいコミュ障でもなければ決して人付き合いが嫌いなわけでもない、ということでした。
私が、人付き合いを重荷に感じコミュ障に陥っていた原因は「この人と話していると神様や母(もしくは逆に父)に叱られるかもしれない」「この話の内容は宗教的にOKなのか?」という心配、背徳感、などだったのです。
学校でのイベントにも、参加出来なくなりました。(昔だからなのか、我校の風習だったのか、七夕やクリスマスなど、季節のイベント毎に学校集会でのちょっとしたお楽しみ会がありました)
元々、運動会やマラソン大会なわとび大会などの運動系は苦手なためただでさえ何かと理由をつけては練習をズル休みしがちだったのですが、文化系イベントは絵が描けることもあって積極的に参加したい方のタイプでした。それが禁止されたのは、私にとってクラス内での立場にも大いに関わりましたし私の精神衛生上も大変な痛手でした。
自分で先生や友達に参加出来ない旨を説明することを、親や宗教の方から求められました。もちろん準備にも参加しません。元々が優等生であれば理解も得やすかったかも知れませんが、虚弱に見えない虚弱で休みがち、漫画ばっかり描いてコミュ障、運動も勉強も出来ないデブス劣等生が自己主張ばかり強くても、鼻つまみ者でしかありません。
私の主張はほぼサボりと受け取られました。先生に了解を取っても、クラスメイトには理由までは伝わりません。わざわざ聞きに来てくれるクラスメイトには理由を説明しましたが、理解出来るはずもないと今では思えます。大体が「ふーん…」というような微妙な反応でした。
出来るイベントと出来ないイベントがあるというのも問題でした。私の好き嫌いで参加の是非を決めているように思われていたと思います。出来ないなら出来ないで、全部やりません!の方が分かりやすかったでしょう。
そもそもあまり馴染めていない学校で、いよいよ私の居場所はなくなりました。
参加出来ないイベントのある日には、もういっそ休んでしまいたかったのですが、両親共にそれは許してくれませんでした。
家からは追い出され、学校にも居場所はない。まだ小学生だった頃は本当にどこにも居場所がありませんでした。
家に帰ると弟達の世話と潰せない暇が待っているので、学校では下校時間で教室の鍵が閉められるギリギリまで漫画を描き数少ない親友(漫画仲間)と喋り、学校を出てからは歩道橋の下で暗くなる寸前までその友達を引き留めてまたオシャベリしていました。ほとんどが、私の家庭の愚痴でした。
あの頃は申し訳なかったと思っています。私立でみんな家が遠かったのに、親御さんは心配しなかったのでしょうか…。
私の「聖書のお勉強」を司会してくれるお姉さんが、帰らない私を待って家でぼーっと待たされていたことは、一度や二度ではありませんでした。
それは当時木曜日の夕方でしたが、その頃の私には時間の感覚も曜日の感覚もありませんでした。
思春期という病
そんな私も中学生になりました。相変わらずデブスのままで、自意識も人付き合いも拗らせていました。
こんな私に忍耐強く付き合ってくれていた友達には感謝しかありません。
ただでさえ「厨二病」なんて言葉も同時にある思春期。思い返しては赤面してジタバタと枕に顔を埋める黒歴史がない人などいないのではないかと思われる時期です。
春を思う時期。
すごい字面です。
人によっては、キラキラとした陽光と爽やかな風を感じる言葉でしょう。まさに、青春。部活に励み汗を流し応援する女の子からタオルを受け取ってキュンとする、今も昔も、そんな青春ドラマは数多くあります。
あるいは春は春でも春違いみたいな状態に陥る、恐ろしい時期でもあります。実際、そうした事件を巻き起こす思春期の子供が多いのは、今も昔も変わりません。うちの学校でも、まことしやかに「◯◯ちゃんが妊娠したらしい」みたいな噂が流れたことはありました。
陰キャデブス拗らせオタク文学少女な私も、例外ではありませんでした。
初のBL堕ちでした。
それは、聖書の教義との真っ向からの対立でした。
笑 う と こ ろ です。
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