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【陰の人生#01】機能不全家庭だった幼年学童期①

 これより前、【陽の人生】と題して、絵を描いてきた過去に特化して記事を書いてみました。

 そこでは、何となく、私の人生がそれなりに輝いて充実していたような印象をお受けになった方もいらっしゃるかも知れません。
 事実、私自身がキラキラとした思い出として回想してしまうのですから、当然だとも言えます。
 かつて、袖振り合って来た友人知人から「羨ましい」というような言葉を掛けられたこともあります。先に書いたように、後悔する点もありますものですから、そんなことないよ、と、内心では思ったりもするのですが、まぁ、確かに楽しかったし楽しそうに見えたのでしょう。
 ただ、私にとっての前半生は、暗く湿った昏い砂利道(時々水溜まりあり)のような道程だったようにも思えるのです。

 人によっては、自身の苦しい思い出などとリンクするかも知れません。どうか、心が元気な時に読んでください。
 また、うっかり読んで気持ちが暗く落ち込んでしまったら、早急にお笑いなどを摂取されますことをオススメします。

肥満児

 どこからお話すれば上手くまとまるのか、よく分かりません。雑然とした独り語りが続くかと思います。ご興味のある方だけ、お付合い頂ければと思います。

 私が育った家庭は、ごく一般的な昭和の家庭だったと思います。両親は学生結婚で周りの親達よりも若かったようですが、育児放棄されたりしたわけではありません。むしろ、愛情を持って育てられたのであろうことが、幼少期のアルバムなどからも窺い知ることが出来ます。
 いえ、愛され過ぎたのかも知れません。
 3歳にして、既に6歳児の体重成長曲線の遥か上を行く肥満児として育ちました。(身長の方は成長曲線内大きめ、程度)

 現代であれば小児健診で引っ掛かるでしょうし、小児科に相談に行く親も多いかも知れません。
 しかし「大きいことは良いことだ」の昭和の時代でしたから、特に何の措置もなかったようです。医者に相談しても、恐らく「痩せさせなさい」と親が悪いように叱られたものと思います。
 ちなみに、母に「何故?」を問うと「1歳から牛乳を哺乳瓶で飲ませていたらみるみる内に大きくなった」だそうです。ご参考までに。

 さて、幼少期から肥満児として育つと、大体は運動神経に支障が出ます。生まれながらの運動神経が抜群という恵まれた遺伝子の子供でもなければ、大抵は動くのも億劫、からの悪循環で運動が苦手、運動が苦手だと更に動かない、からの悪循環で基礎体力の低い子供が出来上がるのではないでしょうか。少なくとも、私はそうでした。
 更に、母子感染による肝臓の障害を負っていました。(母は例の集団接種からです)少し動くとすぐに怠くなり、しょっちゅう微熱勝ちで不平不満の多い子供でした。
 いわゆる虚弱体質というやつですが、色が白いほっそりとした美少女ならば虚弱も絵になるものの、実際にはぶもぶもした巨大児でしたので儚くも何ともなく、祖母は「あんなに太らせてみっともない」と母を揶揄したとのことでした。顔を見る度にお菓子で餌付けしていたのはその祖母ですが。

 パッとしない見た目と鈍い運動神経、休みがちな学校生活、その頃はコンプレックスを隠すためかマウントを取るような話し方をする癖があり、当然のように学校には馴染めませんでした。思い返せば、友達にも先生にも、煙たがられていたような気がします。

 いじめ、はあったのかな。まぁ、いじめ、というほど陰湿なことはなかったと思います。男の子からのからかいは日常茶飯事、女の子はヒソヒソ陰口。でも、もしかしたら自意識過剰で、本当はそんなことなかったのかも知れない。
 何だかクラスに馴染めず居場所がない記憶と、絵が上手だねと褒められて仲良くしてもらっていた記憶と、混在しています。もしかしたらその相手が違って、どちらも正しいのかも知れません。

 それでも自己認識としてはいつも周囲から浮いているように感じられて居場所がなく、保育園も幼稚園も(3年保育・2年幼稚園)小学校も、本当に楽しくなく、身体も怠いし休みたくて仕方がなく、毎朝行きたくないと泣いては叱られ、当時の私は絵に没頭することで心のバランスを取っていたのではないかと思います。

 小学校に入るより前には既に「お母さんのお腹の中に帰りたいなぁ」「こんな毎日があとどのくらい続くんだろう、長いなぁ」と、毎日恨みがましく考えていました。
 積極的に死にたいわけではなかったのですが、泡のようにふわっといつの間にか消えてしまいたい、誰もその存在を覚えていない状態になりたい、と思っていました。

 学生結婚だった父は、家庭を早くに持ったことを後悔していたのかもしれません。
 職に就き、仕事を口実に、その日の内に家に帰って来ない日も多かったようです。ゲーセンか雀荘にいたそうです。家族参加型のイベント事(運動会・お遊戯会など)に父の姿がないのは当たり前でした。あまり気にしたこともありませんでしたが。
 父方祖母によるテンプレ嫁いびりもあったようですし、母方祖母も何かにつけ娘(母)に対抗するような性格だったようで、母の話を聞いていると、そもそもの結婚初期から躓いているような印象を受けました。

 確たる証拠があるわけでもない話ですが、父はいわゆる「浮気」をしていたものと思われます。それは、何となく雰囲気で察するのみではありますが、私がある程度大人になっても続いていたのではないかと思っています。

 母は「寂しかった」と言いました。

 母が救いを求めた先は「宗教」でした。

宗教

 それは、私が小学3年生の頃でした。

 どの宗教か、ということは特に明記は致しません。ご存知の方はすぐにピンとくるであろうと思いますが、別に宗教を糾弾したいわけではないのです。
 信仰は人それぞれ、教義と信仰によって救われる人がいるのも事実、それを悪いこととは思いませんので。

 それまでの私達は、父が家におりませんので幼少の頃から毎週末は母方の祖父母宅に泊まりに行くのが通例となっていました。
 父がほぼ帰らない家庭において、私にとっての父は実質上母方祖父でした。祖父の胡座のスキマにちょこん?ぶもっ?と座り込んでいる写真が何枚も散見されます。

 祖父母の家に行っても、何があるわけでもなかったので祖父と散歩をする以外は退屈でした。母は祖母とずっと喋っており、私は家と同じくチラシ裏お絵描きかチラシ工作に勤しむのが常でした。
 たまに近所の公園まで遊びに行き、そこにいた子と仲良くなっては家に上がり込んでその家の漫画などを読み漁りお昼をご馳走になり、今で言うところの「放置子」のような行動を取っていました。「なんか妖怪」という漫画をあるだけ全部読んだ記憶があります。
 私が上がり込んだご家庭にとっては、私こそが妖怪だったに違いありません。

 その祖父母宅お泊り週末が無くなったのは、この頃でした。

 母が、宗教の集まりに出席するようになったからです。

 祖父母の家以上に退屈でした。
 話の意味も分からずじっと行儀良く座っていることを強要され、頼みの綱のお絵描きも、していると「話を聞きなさい」と叱責されました。

「この世はサタンが支配する世」
「この世の人と付き合ってはいけない」
「神はハルマゲドンでこの世を滅ぼされる」
「ハルマゲドンの後は楽園がやってくる」
「楽園での生活を得るためには、今、神を崇拝して神の側に固く付かねばならない」

 基本的な教義は以上のようなものです。
 いわゆる「聖書」を使う宗教でした、とのみ、書かせて頂きます。まぁ、日本ですとアレかコレかソレか、という感じですが。

 母には「人生の目的」とか「死も老いもない地上の楽園」とか「戦争のない未来」などがフォーカスされた美しい世界が見えていたようです。
 が、私にとっては「サタンの支配の世」が「神によって滅ぼされる」という部分がフォーカスされた恐怖の福音だったのです。

 ちょうど「ノストラダムスの大予言」がフィーチャーされ盛り上がっている時代でした。数えてみればその頃の私は、20代前半。人生で一番良いときじゃあないのか、と、ノストラダムスを恨めしく思う学童期でした。

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