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絶望の夜に、私を救わないコピーたち

ただ「死にたい」があたまを占拠して、どうしようもなく涙が止まらない夜がある。

そんな夜を、キャッチコピーは救ってくれない。

たった一文。

そう、広告のキャッチコピーは、たった一文なのだ。

たった一文で、この気持ちを解決なんてできるはずがない。いや、されてたまるものか。


わたしは、高校生の頃からコピーライターになりたかった。きっかけは、文理選択を迫られたときに、10問であなたの天職を診断します!といった類のものをぽちぽちと進め、出てきた職業がクリエイティブディレクターだったこと。

クリエイティブディレクターは、CMとかポスターとか、広告を制作する際にデザイナーやコピーライターらをまとめ全体を統一する、いわば広告制作のリーダーだ。マネジメントは得意な方で、誰もやりたくないならと学級委員なんかを引き受けることも多かったので、悪くないなと思った。

そして何より、「クリエイター」に憧れがあった。

教科書の隅に落書きをしようとも何を描いていいのかわからず、結局知っているキャラクターを思い出しながら描いていた。アニメの主人公はよく、気怠げに授業を受けながら教科書の隅にパラパラ漫画を描いたり、空想の世界を描いて楽しんでいる。そんなこともできないから、自分は創造性がない、「創れない」人間だと思っていた。

だから、才能を持ったクリエイターを束ねるクリエイティブディレクターという職業、そして、消費者と企業をつなげウィンウィンの関係(当時気に入っていた言葉)を作る広告という業種に、とても興味を持った。

そこからぽちぽちとウェブの記事を読み進める中で、コピーライターという職業を知った。

読書が好きで、ものを書くことも好きだった。初めて行ったコピーライターさんのセミナーで、店内でどれほど手間と思いを込めてコーヒーが作られているかを描いたドトールの広告を見せてもらった。そのコピーを読めば、目の前のたった一杯のコーヒーが特別なコーヒーになる。コピーには日常を明るくする、毎日の小さな幸せを見つけるきっかけを作る力があるんだ!と感動し、その日からずっと、漠然と、コピーライターになりたいと口にした。

本当は自分にはもっと大きなゴールがあって、例えば人を幸せにするとか、そしてそこにたどり着けるならばコピーライターじゃなくてもいいのではないか。

コピーライターになるのがとても難しいということを知り、ジョブフェアで第一志望の広告会社に長蛇の列ができているのを目の当たりにして、悩んだときもあった。

コピーライターさんにOB訪問をして、「広告は賞に出てくるようなきらびやかな仕事じゃない方が多く、本当は泥くさいからイメージと違うかもしれない」と忠告され、不安になったときもあった。

それでも、広告会社でインターンをさせてもらって、コピーライターさんの下で働いてみたら、あっさりと心が決まった。自分の天職はこれだ、と思った。

OB訪問をしたコピーライターさんが言っていたように、たしかに華やかなだけの仕事ではなかった。109のような大きな看板のコピーを書くことはまれで、1ヶ月ほどしか使われないツイートキャンペーンのハッシュタグ、企業の内部で使われる世には出ないスローガン、コンペに出すコンビニ新商品名のプレゼン資料の説明文。とにかく、広告に関するありとあらゆる言葉に注意を払い、責任を持つという仕事だった。

…華やかではない、泥くさい仕事という体で書いたが、実際わたしはこれらの業務を手伝うなかでがっかりしたことなんてないし、なんならワクワクしていた。それは、憧れていたコピーライターとしての仕事に携われているという喜びもさながら、どんなに短い一文でも、どんなに端っこにある言葉でも、人を救えると信じていたからだ。だから、もっといい案があるかもしれないと考え続けることができた(わたしの比じゃなくコピーを愛している上司には、粘る力が大事だからもっと粘ってと言われていたけれど)。


だから今、わたしは考えている。

「古本屋のコピーを書くときに、涙のあとに感動したとか、前の人のマーカーの跡がついていて参考になったとか、世間で言われていることに惑わされてはいけない。実際涙は頬を伝うから本につかないはずだし、前の人のマーカーは邪魔くさい。世の中で言われていることを鵜呑みにすると、『嘘コピー』が出来あがってしまう。」

そんなことを書いたコピーライティングの本がある。

わたしは、「広告はジャマもの扱いされるけれど、実はひとを救う可能性を持っているもの」という信念が、コピーライターを目指していた根本の信念が、嘘なのかもしれないと思い始めたのだ。

だって、この世のどんなコピーも、死にたいと泣きじゃくるわたしを救ってくれない。

救ってくれるコピーを、まだ知らないだけかもしれない?

いや、あの絶望は、一行では解決できない。一行は、人の命を救うには足りない。

自殺抑止のポスターはたくさんある。ポスターのコピーを考えた人は、きっとその一文で一つの命でも救えればと願い、考え抜いたのだろう。

わたしの上司は、「言葉を信じろ、言葉を使って人を動かすんだよ」とよく言っていた。

「あぁ、景品もアイドルも何もなしに人は動かないだろうと、そう思ったらコピーライターは終わりなんだ」と思った。言葉の力を信じられなくなったら、終わりなんだと。

じゃあこの、絶対に一行じゃ救われない絶望を目の前にして、私はコピーライターを諦めるべきなのか。


私が出した答えは、「それでもコピーには意味がある」だった。

すぐに理由はわからなかった。救ってくれないじゃんとひねくれる私に、なんと答えていいかはわからなかった。でも、そんな絶望のどん底にいる時でも、きっと答えは見つかる、絶対にコピーライターになる道で合っていると思えた。

しばらく、ふんわりと考えてたどり着いた答えは、広告の基本中の基本だった。

コピーはそれ単体で存在している文学ではない。人とものに新しい関係を作るための言葉だ。コピーは、どん底にいる私と何かをつなげてくれる。

どん底に落ちる前からずっと幸せについて考えていて、確信しているのは幸せは甘いものではないということ。

本人が本気で自分の幸せと向き合って、試行錯誤して、行動して失敗して、考えて感じて悲しんで。そして、喜んで。その先にあるものが、その人の幸せなんだと思う。

そうだとしたら、そもそも一行で人を救う必要はない。

人は弱い。けれど、それでも、なんとか自力で前に進むしかない。それならば、そのきっかけを作ることこそが、絶望から人を救うことだ。

それは、沖縄へ一人旅に行くことかもしれない。新しくできた水族館のクラゲ水槽を見ることかもしれない。青春を歌ったコピーを見て、高校時代の親友にLINEをすることかもしれない。

そうやって、新しいものに出会う一歩を繰り返して、自分を思い出す一歩を繰り返して、なんでもない特別な日常を形からでも重ねることでしか、絶望からは抜け出せない。

何がその人を救うかはわからないが、その人が絶望から抜け出すために何かを掴む、その手伝いがコピーにはできる。


私の結論は結局、時間が経つのを待って、必要であれば医学の力を借りながら、自力で絶望から這い上がるしかないというなんとも救いようのないものだった。

それでも、「これであなたを救ってあげる」と上から言われるよりもずっとマシな気がする。

コピーは私を救えない。でも、コピーは私を救うかもしれない世界のあらゆる素晴らしいものと出会わせてくれる。そんなコピーを、書いていきたい。

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