雑記20221223

選ぶこと、選ばれること。

「誰かと争うことを運命づけられた場所を持てなかったから、わたしたちは呼吸困難だ」

以前、作品の中でこう書いたことがある。けれどそういう場所を持てても持てなくても、ときにわたしたちは呼吸困難に陥りそうになる。呼吸を忘れそうになって酸素不足でくらくらしているのが今だとしたら、どちらに行っても右往左往、どうしようもない〝ないものねだり〟だ。葛藤のすえに導く答えがわたしの存在を消してしまう、その可能性を知っていても、いつだって酸素は足りていない。

苛烈熾烈は快楽だけれど浸り生きる必要があるのかは向き不向きでしょう。勝てないから挑まないのではなく、挑まないを選ぶことはできる。言い訳に聞こえるかもしれないけれど。その場をあいしていても、高揚がいつもほしいかというと、やっぱり休憩もまた必要で。いつものように散歩して、広い都立公園のベンチのひとつに腰かけて、周囲を見ながら聞きながら、使い古したマグで持ってきたあつあつのコーヒーを飲む。息を吐く。ウォーキングしているおじさんが行ったり来たりするのを眺める。そういう時間がわたしを作る。整えて、蓄積する。

休むを逃げるというのは簡単だ。でも必要なときを見極め、それを選ぶのもまた勇気がいる。焦りや励ましに、本当はないのかもしれないけれど感じる期待に、勝手に駆り立てられて走ろう走ろうとしてしまう。そうして怪我を長引かせてしまう。スポーツでもよくある話。

「あきらめるは、明らかにすること」

と、一時期師事していた尊敬するダンサーの先輩が言っていた。この言葉はわたしにとって、忘れられない気づき。

ゆっくり歩いて、散歩コースでよく出くわしていたカモたちに挨拶しにいこう。ひさしぶりって。また会ったねって。それからだって、きっと遅くない。

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