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わかってほしいがわからない

ど直球に書くと、察するという文化が苦手だ。

正確には「言わなくてもわかるでしょ」という空気に対応することが。

幼い頃、というよりもわたしは根本的に、今はステージに立っているだなんて一体どういうことですか、と自分に問いたいくらい引っ込み思案だった。

もはやどの口が言っているのかとも思うが、目立ちたくないし、人前で無駄に緊張するし(それは今でも変わらない)、人の顔色ばかり伺っているような子供だった。中高時代の部活やら留学やらの経験と、現在の仕事の関係もあって徐々に慣れていった(克服ではない)部分もあるけれど、自分がどう思われているのかに密かに気を張ってしまう程度には今でも自意識が拗れている節がある。

そんなだから、空気を読むこと自体は恐らくある程度はできる。というかしてしまうし、発言には何やら気をつけているし、遠回しな言い方をすることも多いと自覚はしている。

なのだけれど反面、ちょっと違うな、ということや、こうした方が良いのでは、と感じることに対して基本的には「言わずにいる」ことがあまりできないタチなので困ったものである。

そりゃあ人を傷付けるような発言を遠慮なくぽんぽんする訳じゃないし、伝え方には配慮するけれど、暗黙で察してよねっていう圧力をかけられるような場所に出会うと、わたしの中のアンテナがぴこぴこ反応しだすのである。よろしくない感じがする、と。

こと日本の文化において、何でもかんでも口に出してしまうのは無粋だ、とされることがあるのだろうと思う。体育会系的縦社会の中に身を置いていると、上の人間のニーズや思うところは察するもので、不快にさせないように先手を打って動くのが当たり前とされる(ような場所にかつてはわたしもいました)、そういう場所があるのも知っている。

でもね、思うのですよ。

人間みな他人なのです。家族であっても例外ではなく、別個の人間という意味では他人なのです。

察してくれっていうのは、厳しい言い方をすると甘えでもあると思う。相手に求め、してくれて当たり前であると態度で言ってしまうようなもの。いや、態度は「言わない」ですね。表現するようなもの、じゃないかと。

ここで日本だ海外だと線を引くつもりはなくて、相手のことを思って、場合により先読みしてその人のために何かをする、という行為自体は万国共通で誰でもするでしょう。あなたのために、という人としての気遣いに国境はない。

ただそれが、相手を「喜ばせる」ことが、社会やコミュニティに広げられ暗黙として敷かれ「機嫌を取る」ことに用いられる。それを空気を読むと呼ぶのであれば、やっぱりどうしても疑問に感じてしまうし、個人間であっても、言わずにわかってほしいは危険信号じゃないかと思わずにいられない。

行間を読むっていうのは一方で、素晴らしい文化ではある。ときに、みなまで語らないことを選択するのがわたしが関わっている詩という形態の一つの魅力だし、想像させる余白は大事な要素だと個人的には思っている。

でもそれは表現形態であり、作品であり、日常のコミュニケーションとはきっと異なるもの。

どんなに言い方に配慮しているつもりでも、つもりはつもりで結局嫌厭/敬遠されることも多々あるけれど、やっぱりわたしは伝えることを諦めるのは相手を諦めているのに近しい気もしてしまう。諦めたら、その相手に何も言わなくなりませんか、人間って。

伝えたいし、知りたいから、わたしたちは言葉を使う。言葉は、そのためにあるんじゃなかろうかと、これを書きながらまた思っている。

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