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被災者に対して、どういう心の姿勢を持って応援するか、を決めた話。

自分と同じように感じている人がたくさんおられるだろう、と想像して書いていますが。

今自分にできることは募金だけ、と募金はしたものの、被災地の不自由で不安な生活を見る度に、モヤモヤしたり申し訳なくなったりの毎日です。

自分が人と遊んだりして楽しく時間を過ごした後や、文明の恩恵をたっぷり受けて一日を終えて眠りにつく時、一時でも彼らのことを忘れていた自分に罪悪感が湧いたりしませんか。

“武士道”の項目“礼”の中で、知り合いに街中で出会った際、相手が日傘を持っていなかったことを知ったその人は、照り付ける太陽の下で自分も日傘を畳んで話をする、という日本人の国民性のエピソードが書かれていますが、今のような状況では、一緒に苦しもう、苦しまなければ、と感じる心理は、他の人種の人達よりも強いのでは、と思います。その分、より一層心の荷も重くなるだろうなと。

ただ、阪神淡路大震災、東日本大震災時と比べてみると、当時は誰もがただただ圧倒され、この局面での感情の取り扱いに、より強くストレスを感じていたと思います。

数々の失敗を経て、支援の在り方などについて最適解も発達してきましたし、その共通理解も徐々に浸透してきたと感じます。

今回改めて、もし自分が被災してあの状況にいたら?と考えてみて、寄付以外にどういう心の姿勢を持って応援するか、という方針を決めました。

もし自分なら、今の苦しい気持ちを、同じように照り付ける陽に当たりながらじっと受け止めてくれたら確かに救われるものがあるけれど、一日中ずっとそうしていてほしいか?という問いにはNOだなと思いました。

できることが限られている以上、一緒に落ち込んで自粛をしたり罪悪感を感じたりするんじゃなく、今は寄付ですが段階によって現地の商品を購入する、観光に行き現地の人と触れ合いながらお金を落とす、などがやはり一番良いのだろうと思います。

これに加えて、個人的に必要なのではと感じていることが、

・心から相手を想うということはどういうことかを考えながら、他人を含め日頃自分と関わる人に思いやりをもち、敬意を払ったり感謝したりすること。

・平時より、いろいろな辛い立場にいる人達に思いを馳せること。

です。

これによって、“善意の押し付け”や“思いやりの矛盾”が減るのでは、と思うからです。

例えば

・動物愛護に非常に熱心な人が、隣人に対してはものすごく攻撃的で頻繁にトラブルを起こす(一般例)

・膠原病で入院中、薬の副作用で顔が腫れているのでマスクをしていたところ、お見舞いに来た友人から面白半分で顔を見せてほしいと言われる(実例)

・うつ病闘病中、殆どこちらの話も聞かないうちに、薬は良くないから止めた方が良いと専門家でもない友人が助言する(実例)

・被災地にボランティアとして行って“「自分はこれをやりにきたのだからこれしかやらない」と言って、求められていない活動を行う(実例)

・自分の判断で贈り物をしたり手助けをしたのに、お礼がないと激怒する(一般例)

など、本当に相手のことを思っていないと、言動・行動の端々に、善意の押し付けや矛盾が出るんですよね。

こういった日々の小さなズレが大きな軋轢となって、人を救うための目的の宗教が戦争の火種になる、なんて壮大な矛盾にも繋がっているんだろうとも思います。

話を被災地に戻しますが、くれぐれもこの点に注意をしないと、独りよがりで寧ろ迷惑な支援となってしまう危険性があると感じるので、

①上記2点を日々心がける。

②自分は上記2点を今日も一日心がけたことを振り返って確認しながら、被災者を含めて辛い立場にいる人達を想い、自己流の慈悲の瞑想をして眠りにつく。

と、自分として取る行動を決めました。

①については、身近な人に思いやりを持ち敬意を払い、感謝をしながら接することで、その気持ちが次の人へ次の人へと渡りながら大きくなっていく。

体力がある人に渡れば、受け入れ開始となった時にボランティアとして現地入りをする人が出てくるでしょうし、自分の売り上げの一部を継続して一定額寄付しようと決める人が出たり、災害時の復興に役立つ企画を上司に提案しようという人が現れたり、その気持ちに打たれた企業が、社宅を格安で貸出すようになるとか、そんな流れが生まれるかもしれない。

被災地にもその力が届くことを信じたいなぁと。

②については、一方では相手を憐れんで必死になって支援をしながら、別の苦しい立場にいる人は平気で足蹴にしている、とか意外とあると思うんです、自分も含めて。

例えば、自分では選べない生育環境など複雑な問題があってその状態に陥っているのに、貧困者、依存患者や引きこもりの人達を一括りにして、自己責任と冷たい視線を向けたり、犯罪者予備軍として受け取られかねない報道をするなど。

いつもどこかに辛い立場の人はいる訳で、その人達に対する理解を深めたり、配慮や思いやりの気持ちを向けることが必要なのではと。

また、祈るという行為は、相手を想って初めて成立するので、勘違い支援の裏に隠れている“自分が自分が”というエゴを抑える効果があると思うんです。

災害や降って湧いたような事故は本当に辛いことですが、これらがきっかけとなり、日頃の当たり前の価値に改めて気づくことができることも心に留めて、淡々と上記2点を続けながら生活しようと思っています。

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