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痛みと絶望 そこからなにが

今日、「身体のスキャンダル」という名のワークショップに参加し、「スマートな悪」という本の存在を知った

痛みは、「私」の現在の状態の中に加算され、「私」が関わっているほかの物事と並列されるものではない
「私」に対して痛み以外のことを考えたり感じたりすることを不可能にし、その痛みだけが「私」を占拠するという点にこそ、痛みの本質がある

byカント

このカントの言葉に続く言葉

痛みは、現在「私」が置かれている他者との関係を「私」に放棄させ「私」を自分自身とだけ関係させるよう強いる

毎日毎日、死にたいと連絡してくる若者たちの多くが、自分自身とだけ(過去と未来の)の関係にうずもれているように感じていたので、これはと思った

ここで表される「痛み」は、「トラウマ(による心的外傷)」と置き換えることができるのではと思う

それは、あらゆる暴力によるトラウマだ


若者たちのおかげもあり、暴力について、毎日毎日考える

私のあれが、これが、暴力だったんじゃないか・・ 考えるときりがない

あの人のあの目線が、手の振り方が、戸の締め方が暴力だったんじゃないか・・

暴力性がどこに宿るのか、私たちは本当に無自覚だ

無自覚に、ほとんど無意識に、良かれと思ってとる行動や、役割として求められてとる行動にこそ、暴力は根を下ろしている

それを日常的に受けている身体は、だんだんとそれがない日常に怖れを抱くようになる

知らず知らずのうちに、依存関係を構築し、逃げられないよう囲い込まれる

そして、暴力性は正義や愛の薄い膜で包まれ一見肯定的なものとして空気に触れる
違和を感じながらも、当事者や周囲は騙されていく

人間は、それを何代にもわたって受け継ぎ、繰り返していくのだと思う

しかし、理由はうまく説明できないが、実感として、その絶望が、小さな種になり、発芽し実を落とす瞬間に、もしかしたら今視えている世界が転覆して新たな景色が視えるのではと、そう微かに期待もしている

最近、若い友人が自宅で食堂を始めた

食堂と言っても、知り合いに声をかけ、「食事をふるまう代わりに話し相手になって」という彼のアイデアで始まった場だ

いじめに遭い、つらかったときに助けてくれなかった両親に、暴言暴力を浴びせ続け、家族は彼を残してある日突然いなくなった
そんな彼がひとりぼっちになって始めた食堂だ

屋号は、「土森食堂」

彼には、吃音があり、それをもじって「土森(どもり)食堂」と名づけた

センスが光るのは、店の屋号だけじゃない 

彼は、中学生の時から不登校で、畑や料理に夢中になり、自給している野菜で料理をふるまう

自家製麵のつけ麺 香味油で


自家製ケチャップのオムライス 大豆ミートのライスで


茄子ソースと紫トウモロコシの米粉入りピッツァ

もう、なんというか、毎回美味しくて舌を巻く

気力がない、自分はもう死んでいて現実感がない、親ガチャ、AC、トラウマ・・

そう毎日呟くようにメッセージを送ってくる彼の料理へのこだわりと配慮と愛情(私はそう感じる)は、絶望が生んだものではないかと思う

なぜそう思うのかはうまく説明できないけれど、話を聴きながら、一緒にごはんを食べたり、山を歩いたりする中で、そう感じるようになった

トラウマが、絶望が、日々の苦しみを生み続けていること、苦しみと共に生きていくためには依存先が必要で、それが畑や料理だと彼は言う

将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません
将来にむかってつまずくこと、これはできます
いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです

「フェリーツェへの手紙」 カフカ

ある人の痛みや絶望の種が、他者を救うことがある

それが、その人自身を救うのはいつなのだろうか

彼もまた別の人の絶望の種に救われるのだろうか

彼が受けてきた暴力と、育んできた暴力性と、料理への愛情と気遣いと、
それらをすべて内包する彼の身体を想う


いつか、彼がその苦しみを経験してよかったと笑って言える時は来るんだろうか

そこを未来に据えぬよう自分を戒めながら、彼の今と共に居たい

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