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人を「判定」しない

我が家には思春期まっただなかの娘が二人いるのだけれど、日常のふとしたときに、彼女たちにうっかり言ってしまいそうになる自分の言葉の、そのあまりのひどさに、すんでのところで吞み込んで、代わりにメモを取っては慄く日々が続いている。

通称:毒舌・未遂語録

先日は、ちょっと体重が増えたことを気にしていた次女に、
仕事と夕食作りを同時進行していた慌ただしさがあったとはいえ、
「ね。人としての弱さが出るよね。」
とうっかり言ってしまい、泣かれた。
(これは未遂ではなく言ってしまった)

今夜は、ニ夜連続して、特に親しいというわけでもない友達に会いに行くという長女に、
「あら、昨日も会ったんでしょう? そんなに毎日会うほどの友達だったっけ?」
と言いかけた。
(こちらは呑みこんだ!)

自分で書いていて、自分に包丁の刃を研ぎそうになる。
「会うほどの友達」って何?
どういう意味?

ちなみに、その友人たちのことは私は嫌いではない。
ふつうにいい子たちだと思っている。
ただ、長女には遠方に、本当に仲のいい友人が別に二人ほどいて、彼女たちは、振りかえれば髪の先まできらきらと光が差してきそうなザ・16歳。勉強もスポーツも音楽も容姿もその上、性格も、というあのタイプ。暇があったらドビュッシーを練習したり、キャンプの計画を立てたり、世界文学全集を翻訳しようとしたりしている。
この年頃のこういう子どもたちが放つ輝きというのは、きっと今後も彼らの人生で香る風のようなものになっていくだろう。
考えただけで素敵だ。

それはまあ、いい。

ただ(言語化すると吐き気がするが)そんな彼女たちにくらべて、そこまで熱心に今を生きているというわけでもない感じの友人たちに、わざわざ二日も続けて会いに行くのかと、問おうとしてしまったのだろうか、私は?

一体、自分の娘が、どれだけのものだというのだ?
ひいてはそういう私自身は、何様だというのだ? 

……恐ろしい。

何が恐ろしいって、私の発言が、年々義母に似てきているのが何より恐ろしい。

そういえば、二十年前に夫と二人、結婚の報告をした時、英国名門大学出身の義母は、驚きのあまりぽかんと口を開けて、
「待って。意味が分からない。私は、こんな東の果ての人種と結婚させるために、あなたを育てて来たわけじゃないのよ?」
と、真顔で夫に言っていた。
『あの時はさすがに親子絶縁を覚悟した』らしい夫の横で、私は、そのあまりに正直な本音、つまり超教養人であるはずの義母が惜しげもなく人間性を滑落させていくその姿に、感心してしまったというか、怒りもわかず、
「そうか。そうだよな。そりゃあ、そうだろうなあ……。」
と納得してしまったのを覚えている。

あれは、私がうら若いのに人並み外れて寛大だったわけではなくて、ただ単に、義母と同じ思考回路の女だったからなのか。

あれから無事、二十年が過ぎた今、子育てや人付き合い、人生の価値観において、うっかりするとデフォルト状態で一番理解し合えてしまうのが義母である。というのが今の頭痛の種である。

判定しないこと。
まして他人を自分の基準で判定しないこと。
言うは易く、行うは「無理」の命題なのだが、これをどうにかして身につける方法はあるのだろうか。
人生すでに半ばすぎ、という年齢になって、なんとなくこのスキル、というか本気の覚醒を得られるかどうか、が今後の人生の分かれ道のような気がしている。

識別、区別、差別といった判断能力が、綺麗ごと抜きで、人間の生存にどれほど重要な技能かということ、簡単には書き換えられないDNA情報であることも受け止めている。
そうだとしても、他人を自分の基準で判定しない、この能力だけは、なんとしても今世のうちに習得したい。

……だって、やっぱりそうできたほうが人生が楽しそうなんだもん。

他人の立ち居ふるまいや人生をわざわざ見にいって、聞かれてもいないのにあーだこーだ好きだ嫌いだ言ってる人って、やっぱり……
本人が一番、楽しそうじゃない、じゃないですか。

ちなみに、あの義母に愛情深く育てられた夫は、義母のふるまいを通して、自分はできるかぎり人を判定せず、たとえしてしまったとしても、けっしてそれを口にはすまい、態度には出すまい、と誓った記憶があるそうである。
9歳ぐらいの頃だとか。

自らのふるまいを通して、息子にこんな大切な人生訓を与えられた義母は、一周まわってやはり偉大な母親だと思うし、そう考えれば、私もなかなか見どころのある母親なのか……?(いや、ちがう)。

修練あるのみ。

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