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娘と『不適切にもほどがある!』を観る。

長女と、宮藤官九郎脚本ドラマ『不適切にもほどがある』を観ている。

16歳になる長女は南欧生まれの南欧育ち。
小学生の頃に数回だけ、夏休みに合わせて日本に帰国し、7月の日本の小学校に数週間在籍させてもらったことはあったが、実際の日本社会で長く暮らしたこともなく、ましてや80年代の空気を体験したはずもなく。
果たしてこの世代間タイムスリップ・ドラマの、さらに国境越え・親子鑑賞は、そもそも成り立つのかどうか疑問だった。

が、ふたを開けてみれば不思議や不思議、同じツボで笑い、同じツボで目頭を熱くし、もちろん小ネタの解釈や時代背景は時おり説明を加えながら、意見の異なるところは議論を交わしつつ、毎週欠かさず熱く見ている。
はっきり言ってこの親子鑑賞、かなり楽しい。
クドカン独特のテンポ、ギャグ、小ネタの笑いも尽きないが、親側にとって、このドラマ、子世代からの学びが多すぎるのである。

ちなみに、以前からずっと思っていたのだけれど、昨今の世代、Z世代といわれるんだろうか、この方々は忖度抜きで、なにげに私たちより『できた人間』が多いような気がするのは、錯覚だろうか。
……錯覚だろうな。
でも私はこの感覚を、子どもに対しても、生徒に対してもずっと持ち続けている。
なんだか、みんな、人生二周目みたいなのだ。ある種の諦観、なのかな。

話を戻して、細かい観察力においても娘の方が私より数段上で、たとえばEpisode 3、タイムマシーン開発者の井上博士が、バスの運転席に乗って過去にタイムスリップする感動の瞬間のこと。
私は「わ~♪」なんて単純にシチュエーションを観て笑っていたのだけれど、突然娘が、
「日本てやっぱりすごい~。細かいところ、造りこんでる!」
と感激しだすので、何のことかと聞くと、
「『えー、発車しまーす』の車内アナウンス、本物そっくりだったよね!」

私はふつうに聞き流していてあとでもう一度聞き直したら、たしかに平たく押しつぶしたような声が本当に懐かしい車内アナウンスそのものだった。
こういう細かい演出にも、娘はいたく感動するらしい。

またEpisode2で、ミュージカル曲に尾崎のイントロがかかった瞬間、「わ、『15の夜』!」と真っ先に感激。
隣りでぽかんとしている父親に(一応、一緒に見ていた)、娘は一旦ドラマをポーズし、『15の夜』とはどういうコンセプトの歌か、なぜバイクは盗んだものでなければならなかったのか、そしてそれはなぜ15でなければならないかを滔々と説明し、またそそくさとドラマに戻る、そんな彼女を肩越しに見て、私は思わず5歳からこの子に尾崎 ”も”聴かせてきたこれまでの子育てを全肯定してもらえたような気持ちがして、ちょっと泣きそうになった。
肯定って誰に? 宮藤官九郎に……笑?

というわけで、拾いきれるだけの小ネタを拾いつつ、ドラマを楽しんでいるわけだが、もちろんこのドラマは小ネタがメインではなく、ものすごく大きな社会的テーマを背景にしていることは、言うまでもない。

現代の時事ネタを、タブーがタブーであるその最中に、これだけ壮大な、かつ小ネタ満載のギャグドラマとして、各層に届くかたちで世に出せる宮藤官九郎という作家の才能は、まったくもって過小評価されていると私も思う。

この「通じる」毛細血管が、幾層にもわたってはりめぐらされている感覚 ー ここでいう『層』というのは、社会的階層の意味ではなくて、心理的階層というか、村上春樹のいうところの「地下一階、地下二階」に近い『層』である ー こういう、それぞれの層を持った人々に全体的に通じるというのが、偉大なる創作者の偉大たる所以だと思う。

ちなみに、クドカンのドラマは何度も一緒に見ているのに、イマイチどこがおもしろいのかわからないという夫に、また「宮藤官九郎って誰だったっけ?」と聞かれ、タイガー&ドラゴン、ゆとりですが何か、俺の家の話!と何を出してもぴんと来ていないので、「あれだよ、あれ。『すべて忘れてしまうから』のダイニング・バーのキッチンで、焼きそば作ってた人」というと、「ああ、あのぱっとしない感じの…」
とあっさり思い出していた。
なんか腹立つ。

で、今回のEpisode 3。
この回は、これまでで一番、娘との議論がおもしろかった。
(ネタバレにすらならないほどひどい要約なので問題ないと思いますが、念のため、内容を知りたくない人は飛ばしてください。)

要は、助平なエロオヤジ(そもそも、この表現がアウト。今回だけは便宜的にお許しください。←甘え。)を絵にかいたような人物を自認する主人公・小川市郎が、2024年にタイムスリップして、ポリティカル・コレクトネス地雷を踏む恐怖に怯えきっている現代のTV業界で、女性を見る視点についてのガイドラインとして「自分の娘にしないことはしない~♪」と歌う場面。

私はそれを初見したとき、素直に感動してしまった。
そうか、ほんとうにそうだ、とストンと思ってしまった。
もしも自分が中年男性だったとして、そして当然エロオヤジだったとして、娘ぐらいの年代の女の子が関わっている社会のあらゆる性的表現が語られる場において、自分はどういう思想を持って関わっていけばいいのか、というのをハタと悩んだとき、小川市郎こと阿部サダヲが熱唱するように、クドカンがそう書いたように、
「みんな誰かの娘。だから自分の娘にしないことはしない。」
そう思えばいいんだと、すっかり心は中年エロオヤジの私は、天から啓示を受けたように感動してしまった。

「へえええ、そっか~。こういうふうに思えばいいんだ~!」
と、小学生みたいな感想を言っていると、隣で娘が、
「でもこれ、言われて嫌な人、絶対いるよね」とさらり。
その時、私は分からなかった。

その数日後、このフレーズが日本でたくさんのモヤモヤを引き起こしたことを知る。
それは端的にいえば、実父に性被害を受けた女性たちの視点を完全に見落としている、というものだった。

自分の鈍感さに、またもや衝撃を受けた。
全く、まったくもって想像できていなかった。
確かにそうだ。
もし自分がそういう傷を持っていたとしたら、この言葉を聞いたとき、心は瞬間で凍るだろう。
いつかバラエティ番組で見たのだけれど、宮藤官九郎さんがどれほどステキなパパかということは彼が娘さんを語る口調からもあふれ出していて、そういうことからも、この受け取り方があることは、零れ落ちてしまったのかもしれない。

それにしても、おかしいと思ったことはおかしいとその場ではっきり言う娘が、なぜあの場で声高に、私に対してその点を言語化しなかったのかな? もしかしたら、また横で顔をはてなマークでいっぱいに夫(彼女にとっては父親)に一応気を使ったのかな、とも思ったが、後で聞いてみると違ったらしい。
それぐらい、言わなくてもママだってわかるだろう、と思ったそうだ。

……すみません。
ソーシャルメディアに解説してもらうまで、全然わかりませんでした。

私は自分のこういう鈍さを、人生で何度も反省してきたのだが、今回もほんとうに、まったく学んでいない、、、と反省した。

その上で、翌々日、日本でもこのフレーズがプチ炎上していることを伝えると、今度は逆に娘が軽めにプッチン。
はたまたびっくりした。

「なんで? なんでみんなまた、わざわざさわぐかな?!」
とご立腹。
「いや、ママは騒いでないけど……」
「だからママじゃなくて、日本社会が」
「あ。だって、それは、実の肉親から被害にあって苦しんできた人の心を考えたら、たしかにあれは、駄目だったかもしれないじゃない?」
……あれ? この点はむしろ、娘の方が私より早く感知していたのではなかったのか、と思いながら言うと、
「でもさ~、だからね!!」
はあ~っとおっきくため息。
深呼吸して娘は続ける。

「あれは、いろいろこんがらがって収集つかなくなってる『今』がちょっとでも生きやすくなるように、あくまでそういう意味のメッセージでしょ? そういうドラマでしょ? ちょっとでも笑えるように、あんなに造りこんで、一生懸命なにかを作って。それを鈍感とかって言っちゃったら、みんな誰だって、誰かに対しては絶対鈍感なんだから、誰も何もいえなくなっちゃうじゃない! 受け取り方はいろいろあるけど、それでもなんとかしようよって声を、応援したくない? そんな声まで騒いで批判しちゃったら、もうなんにもなくなっちゃうじゃない」 
とのことでした。

これが果たしてZ世代からの意見なのか、やっぱり昭和中年エロオヤジの甘え的意見に迎合してしまうものなのか、はたまた世の中全て他人事の無関心意見なのか、なにがなんだかもう私はわからなくなってきましたが、今後、『不適切にもほどがある』は娘の横に鎮座して、講釈をしてもらいながら鑑賞しようと思います。

日本ではEpisode5が放映されたようですが、我が家の娘は、中間試験とデートに忙しくていうほど家にいてくれないので、なかなか見られておりません。
早く見たいな……。

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