そのアウトプットは誰のため?

いろんな人のいろんなアウトプットをみていて、ふと気がついたことがある。

ある人が、あるテーマや情報、あるいは心のゆらぎに出逢う。
ここがあらゆるアウトプットの始まりだと思う。

その心のゆらぎやテーマなりをフライパンにのせて、どんどん内に向けて、自己の内面を掘りさげるように調理していくタイプのアウトプットと、どんどん外に向けて、誰かの力や栄養となるように調理していくタイプのアウトプットがある。

そんな気がした。

読書感想文、しかり。
日々のエッセイ、しかり。
小説なども、そういう目線で見るとおもしろい。
エンターテイメントやビジネス本、あるいは純文学。詩歌。

もちろんハイブリッド型もあって、内に向けて掘りさげたものが、そのまま誰かの栄養になったりする、というタイプ。
ある意味、最強のアウトプットかもしれない。

どれがいい、悪いというのではなく、その矢印のベクトルに注意してあらためて世の中を見わたしてみると、いろいろを学びがあるものだなあ、と思う。

たいてい周囲に人が集まっていて華やかなのは、外向きのアウトプットタイプ。
やはり人は、情報や明るい話題に群がるものだし、そこまでいかなくても、話を聞いて学びになるとか、気持ちが温かくなる、元気になる、というだけでも、大きい意味での外向きアウトプットだと思う。自分というフィルターを通して、読んだ人・聞いた人になにかの新しい風を与えるものもある。
やっぱり清々しいし、また触れたいと思う。

その一方で、恐れずに内向きに掘りさげるからこそ、より中身が研ぎすまされて、深まるアウトプットというものもまたあると思う。ときに自分語りは聞かれづらいというけれど、それでもその勇気や誠実さに励まされ、孤独なのは自分だけじゃないと勇気づけられる。何はさておき『自分に価値があるからつぶやき続ける』、この姿勢そのものに勇気をもらえる時もある。承認欲求の沼がいたるところに暗在する現代では、足を踏み外さないためにも自分軸は命綱かもしれない。

ひるがえって私は、今、人生も半ばにきて、今後、どのようなものを得て生きていきたいかなあ、と考えた時、まったく矛盾するようだけど、与えることのできる人生だなあ、と思った。

与える、というとすでに語弊があるが、
とにかく自分の気づきが、誰かの価値へと転換のベクトルのある人生。

これはいったいどういうことなのか、まだうまく言語化もできなければ、自分でもよくわかっていない。

ただ 
”人に何かを与えられる人生にしか、もう得るものはないんだなあ”
そんな回文のような、日本語文法すら危うい考えが浮遊してきたので、
これからじっくりゆっくり、この意味を考えていこうと思う。

そんなことを考えながら、ふらっと家を出て6000歩あるき、丘の上に住む友人の家へ行って、やあ、とだけ言って帰ってきた。

私は、たぶん混乱しているのだな。

でも、月がとても綺麗だった。

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