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わたしが鬱になった経緯、その2

(心に余裕があるときに読むことをおすすめします)


その1はこれ。


高校を卒業し、大学に入ったわたし。やっと実家を離れられてわくわくだった。

大学生になってから、履修登録や勉強は順調に進んだ。(ぶっちゃけ一定以上の偏差値大学なら友達なんていなくてもシラバス読んで履修登録くらいせえと思う。以上勝手な文句)病院にも行かずに済んだ。
ギターマンドリンクラブに入った。楽器を1からやるという部活、勉強、それから書店でのバイト。言語文化論のレポートでAAをいただいて嬉しかった。
憧れの大学生活。

ができたのは、半年だけだった。

10月ごろ。毎年やってくる季節の変わり目の体調不良(いま思えばこれは暑さが苦手すぎるゆえの夏の疲れ)がやってきた。
大学に通えなくなった。部活とバイトは根性で行ったけれど、講義にはまったく行けなくなった。点滴を2回ほど受けた。泣いて泣いて、枕が浮くかと思った。それは嘘。

大学の保健センターに駆け込んで、カウンセラーさんに少し遠くの病院を紹介してもらった。

うつ病。

そこの病院の先生に告げられたのは、そんな病名。

正直、ほっとした。なんだかわからないけど、病名がついたことに少し安心した。服薬を再開した。後期の授業は1単位しか取れなかった(当時できる限りのフォローをしてくださり1単位をくださったフランス語の先生にはいくら感謝しても足りない)。

それから、綱渡りの日々が始まった。バイトは春に家から出られなくて辞めた。
2回生から休学した。部活をやりたかったから。マンドリンオーケストラの、音楽の魅力だけは忘れたくなかったから。

この判断は体調を鑑みると間違っていたかもしれない。でも当時のわたしにはそれしかなかった。同期と一緒に卒業するよりも、同期と一緒に部活を完遂して引退したかった。

部活しかやらない(できない)生活を続け、2回生も終わりに近づき、部活で幹部になった。自分で広報に立候補した。SNSやサイトの運営をしたかった。
広報として、定期演奏会のチラシを作り、積極的に宣伝を行った。OB合同演奏会の年だったため、ネットを通したOBさんとの折衝もわたし(と他数名)の役目だった。

これは完全にオーバーワークだった。
やりたかったからやった。けれど、無理だった。根性でやった。気合いでやった。

夏、限界を迎えた。自殺未遂をした。今なら死ねるなあと思った。無理だったけれど。
救急搬送された病院で手首を縫われてそのまま一晩寝て、その夜ひどくうなされたことを覚えている。自分の叫び声で目が覚めたのは後にも先にもあのときしかない。

周りがどう思っていたのかはわからない。きっと腫れ物に触るように扱われていたのだろう。もしくは知らなかったか。それとも、わたしがやると言って聞かなかったからやらせてくれたのか。
わからないけれど、それでも部活を続けた。
いま考えると狂っていたと思う。いまのわたしが近くにいたら絶対に止める。本当に意味わからんくらいに部活に狂っていた。

それから、4回生になって引退するまで結局辞めなかった。肌感覚として、同期よりも後輩のほうが目に見えて気遣ってくれた。本当にありがたかった。
部活の引退と同時に、大学を辞めた。もったいなかったかもしれないけれど、親や祖父母にお金で負担をかけるわけにはいかないという気持ちがあった。

そんな感じの大学生活だった。

それからもずっと死にたい。今まで。薄くなったり濃くなったりはするけれど、希死念慮は消えない。

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