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【仕事編・学童保育指導員②】 0ポイントと出会う旅

早起きして歩くことができた、気分がいい。
今日は36℃まで気温が上がるらしい。


前回は
学童保育の現場に初出勤した際のことを書いた。

人の、子どもの、元々備わっているエネルギーって、
型にはめたりひとつの線に沿わせようとしなければ
どんどん拡散していく、すごいエネルギーなんだって。

そのままにあれば、どんどん拡散して高まっていくエネルギーみたいなものを、殺したくない、小さく萎縮させたくない、そう感じていたと思う。

ひるがえって、
「わたしという個体のそもそもの力」を、可能性を、
それを見失っていたことを、
こんなことはあるべき姿じゃない、
というようなギリギリした感覚がこみ上がってきていた。

子どもたちのすぐ15年後が、わたし、なのだった。
このエネルギーの、ほんの15年先にあるのが、わたしという個体、という現実は、なんともやるせなかった。

わたしの他の指導員は、
・東京で教師をしていたご自分も子どもを持つ40〜50代くらいの方
・30代後半だったのだろうか、ご自身には子どもはないが、結婚をしている保育士免許を持つ方
の2人だったと記憶している。

当時23〜4歳の素人のわたしが、この中にポンと入ることになって、なにができるというのだろう、と、誰もが、子どもたちも、子どもたちの親たちも、思っただろう。

その感じをビンビン感じながら、「なにができるだろう」を引っ提げて、毎日をやっていた。

おやつをだしたり、宿題をみたり、時に近くまで遠足に引率したり、地域の祭りの太鼓を練習したり。
めまぐるしい。
めまぐるしく過ぎていく。
帰り時間には親が迎えにきたり。
親と話すのは緊張した。
親たちよりもずっと年下のわたしが、なにか、うまいことを言えるわけもなく。

なにをするにも、他の指導員にわたしは敵わない。
当たり前だが、人生の長さも重みも違ったし、
なにより大人として当たり前に身につく「その場に居られる感じ」が、わたしにはなかった。

自分から希望して雇ってもらったのに、場違いなような、誰にも期待されていないような、子どもたちも周りの人たちもがっかりさせているような、気がしていた。
「なにができるんだろう」が、鳴り止まない。

そんな中で、
わたしが子どもたちと年齢が近かったからか、
わたしの情けない感じがダダ漏れだったのか、
「しょうがないなあ、この先生は」みたいな温情で、
話しかけてくれるようになった。

一緒にがんばること、は、たのしかった。
けん玉、竹馬、地域の催しで披露するときもわたしも一生懸命がんばって、みんなに応援されて、みんなを応援して、たのしかった。
竹馬、乗れるようになったよ。

ひとりひとりのこぼれ落ちていく、見逃されやすいところを、わたしは拾いやすく、
他の指導員が気がつかないところでわたしは見ている。
それでなに?と言われれば、なにもしていないのと同じではあるが
でも、見ている。
拾っている。

だんだん、そのひとつひとつが、わたしの中に降り積もっていって
愛しい気持ちが湧いてくるようになった。

「なにが」という、具体的なことがなくても
ない、ことにはならない。
ある、のだ。


近くの公園まで遠足に引率したときなど、わたしは、子どもたちの前でお話をした。
他の指導員がいないときは、わたしは自由になれるようだった。
すでにあるみんなが知っているお話に、尾ひれをつけて即興で話していく。
演劇部で体験していた即興の稽古が役立っていた。
その場の、その時の、みんなの、わたしの、環境の、すべてが混ざり合ってスッと次の一歩につながっていく、そういうお話だった。

ひとりひとりの、ワクワクの顔が、わたしに物語の次を語らせる。
たのしかった。いくらでも「次」が現れる。
「もっともっと」「他の話は?」と、みんなが聞きたがった。

「粒と星座」の言葉でいえば、
その場の有機的自律運動が、「お話の行方」を開いていくようにゆるく混ざり合っていく、展開していく、ような時間だった。
ひとりひとりの中でなにかが動き続けている。

なにか、は、子どもたちに備わっている生命のエネルギーのようなものだった。

見えないけどある方向に、ぜんぶがつながっていくような
ひとりひとりなんだけど、バラバラなんだけど、全体でひとつの方向にはたらいているような。
ゆるいような感じだけど、満ち満ちした、豊かなはたらきの中にあった。


30年経った今でも、
当時の子どもの、声を、表情を、鮮明に思い出すことができる。
「〇〇せんせえ」と、かすれて甘い1年生のあの子の声、休みの日にわたしの家まで来てわたしを呼んだあの声。
4年生でしっかり者のあの子、真っ直ぐな前髪に長い髪を後ろでキチっと結んで、クラスでは優等生なんだろうけれど茶目っ気を見せる声。
弟と姉で学童に来ていたあの子とあの子、顔がそっくりで、ぺチャッとした顔がチャーミングで、弟は泣き虫で、でも、2人とも勉強がすごくできて、実はよくなんでもわかっていて、わかっていることをひけらかさない子。
あんまり口をきけなくて、泣いちゃうあの子。あなたの気持ち、わたしわかる気がする。泣きたくて泣いてるんじゃないよね、そうなっちゃうんだよね、自分のことを誰にも、親にも、わかられていないよね、「泣かないで」なんて、わたしは言わないよ、あなたの、気のすむように、自由にやっていいんだよ。嫌なことはガンとして、やらなくていいんだよ。あなたの言いたいことがちゃんとわからなくてゴメンね。

ひとりひとりのいろいろが、わたしの中になだれ込んでくる。

わたしは無力で、その子たちを守ることもできない。

ただ、一緒にいて、遊ぶときはあそび、ただ、見ている。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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