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【仕事編・たい焼き屋 空気を読むことが吉と出る】 0ポイントと出会う旅

前回は、電話の業務で自分の負荷がかかったことを書いた。
集団の中で「馴染めない」を経験してきたわたしは、
「馴染もう」とする負荷を減らすつもりで人に直接会わないで済む電話窓口の仕事についてみた。

想定外だった。
見ず知らずの相手の情報が拾えない、声しか情報がない、という状況では
「拾えない」ことが負荷になったのである。


地元でたい焼き屋さんをやったことがある。
東京で演劇に挫けた時期だった。
一旦、地元に戻った。

アルバイトニュースで見つけたそれは、あちこちのスーパーに出向いてたい焼きを焼いて販売する仕事だった。
最初は師匠から教えてもらって、焼けるようになったら一人でやる。
毎朝、車に材料を積み込み、現場のスーパーに置かせてもらっている道具で生地を作り
ガスと焼き機でたい焼きを焼いていく。
スーパーの帰りに寄ってくれる人が買ってくれる。

わたしは焼くのがうまかった。
情報を拾うのが得意だからだろうか、
たい焼きの生地の柔らかさや、アンコを容器に盛る、それを焼き機の上の生地に落とす大きさ、火の加減、
それらを肌感覚で習得するのがスムーズだった。
自分の感覚のすぐ先に、たい焼きがある。そんな感じ。
人とのコミュニケーションに負荷を感じていたわたしだが、
モノ、とのコミュニケーションは負荷がなかったのである。

ただし、モノがよければ売れるか、というと…
そういうものではなかった。

「売る」ことに抵抗があった。
最近はじめたわたしのたい焼きなんて…
師匠のたい焼きに比べたら…
男の人が多いから女のわたしが焼いているのは珍しがられて恥ずかしい…
などなど。

師匠である社長は、わたしの飲み込みの早さに驚いて見込んでもくれていたし、
合格が出たからわたしはたい焼きを焼くことになっているし販売することになっている。
だけど、「売る」ことに抵抗があったのである。

わたしより先に入社していた先輩がいた。
わたしより年齢が下だった。
背が高かった。
顔が良かった。
この人、Mさんとしよう、Mさんはほとんど喋らない。

そして、社長のいいところは、その人がその人のままでかまわない、といってくれるところだった。
たい焼きを焼く、喋らない、呼び込みをしない
それで構わない、と社長は思っている。

味には、厳しかった。
ちょくちょく様子を見に寄っては抜き打ちでたい焼きを食べていく。
出来の確認だ。

Mさんは、たい焼きはもちろん、お好み焼きも焼き鳥もできた。
この中ではたい焼きが最も容易で、次にお好み焼き、焼き鳥は難しくって主にほとんど社長しかやらなかった。
あちこちのスーパーでこれらのどれかを誰かがやっているのだ。

Mさんの本領はお好み焼きだ。
土曜日日曜日の大型スーパーの玄関口で、大きな鉄板に、お好み焼きを何十枚と焼いていく。
わたしは時折助っ人に入った。

その手さばきは、惚れ惚れする。
無言で焼く。
Mさんは、魅せていたのだ。
しゃべって説得することはしないけど
自分の動きやその整った顔で汗を垂らして目の前のお好み焼きに向かう姿で
人を魅了していた。
近くで見ていても惚れ惚れした。
匂いが辺りに立ち込めていく。
音がジュージューと湧き立っている。
人だかりができる。
焼き上がりを待っている。
数を数えていく。
予約だ。わたしは3枚、わたしは5枚、と、焼き上がったら買おうと数が入っていく。
助っ人のわたしは数を書き留めていって、ああ、この次の焼き上がりになりますね、とか言う。

「待つ」ことが、苦痛でない。
「待つ」間、目の前のエンタメを見ているのだ、目の前の人たちは。

社長が言っていた。
Mすごいやろ。
土日のスーパーだけじゃない、人気の少ないスーパーでも売り上げてくる。
Mはタイミングがうまい。
人通りが出始めると先駆けて焼き始める。
なんでかわかるか。
気配や。
焼き上がっているたい焼きやお好み焼きがあっても、焼き始める。
人は死んだものには惹かれない。
熱の下がった鉄板に生気はない。
だから火は絶対消さない。すぐ焼けるように調節しながら火をつけとく。
人がパラパラ通り始めそうというタイミングで
たい焼きとお好み焼きを焼く鉄板を動かす。生かす。
自然と人の目が惹きつけられる。
だから呼び込みをしなくていい。

Mさん以外の人が呼び込みを禁止されているわけではない。
Mさんは本当に無口で口下手で、それで苦労してきたことを社長は知っている。
社長はそれで構わないと受け止めている。
なんら商売の弊害にはならないことを社長は知っていた。
社長は斜視だった。そのことは無関係じゃない。
人からどう見られるか、人一倍経験しているはずだった。

タイミングか、
わたしは思った。
わたしは自分の「集団で馴染めない」ことを自分にも他人にも隠していて無自覚になっていた。
無自覚なまま、他人に受け入れられる方法を欲していた。
だから、「売る」ことができなかったのだ。
「売る」ことは、自分を肯定できていないと叶わない。
なぜなら、売ることで交換されるものを自分が持ち合わせていないと思い込んでいるから。
思い込みを外せるのは、自分でしかないから。

社長からもらったヒントと、Mさんを観察して、その通りだと納得していたわたしは
徐々に売れるようになってきた。
売上も上がっていった。
見て、おいしそうでしょ、食べたらわかる、アンコが均一に入っている、どこをかじってもアンコがちゃんと出てくる。硬さも皮の厚さも自覚できている。どこから見られても大丈夫。
口で説明しなくても大丈夫だった。
わたしは堂々とたい焼きを焼き、人通りが出てきたら焼き足していく。
どこにも無理がない。

あのとき、わたしは拾いあっていたと思う。
たい焼きの生地と焼き機とスーパーの場所と人の流れと時間とタイミングと、
様々な目の前の環境やモノの情報を受け取り続け、わたしを示し、拾われて、成り立っていたと思える。
結果として、たい焼きを買ってもらえて、一旦そこで運動は終わる。
その繰り返しをやれていた。

集団においてわたしは、拾いっぱなしで、結果的に空気を読む割合が多かったと思う。
そのことが「集団の輪っか」に寄っていく、指向していくわたしを生んでいた。
たい焼き屋の経験は、拾うことでモノが出来上がっていき、最終的に商品となって「人」に受け取られていった。
人と直接関わることが難しくっても、関わりようはある、ということを
社長の態度と、Mさんの態度と、じぶんでやってみた経験で、知ったのである。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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