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【仕事編・パチンコ屋さん】 0ポイントと出会う旅

前回までに楽器屋さんのことを書いた。
楽器屋さんでは求める人の希望に沿って楽器の説明ができたし、わからないことは先輩スタッフに聞くことができていた。
困ることはほとんどなかった。
わたしにも働ける場所はあった。
コピーライターの時もそうだった。
わたしはわたしのペースのまま、ある程度の余白がある場で、自分の感覚を殺さずに居られるところでなら「働く」ができたと思う。
唯一で絶対な集団の輪っかに強制されない、つまり、自分の0ポイントから外れすぎることがなく居られれば、働くことは叶う。

自分が自分の0ポイントで居られるということは、かなり快適だ。
意識しないでもそこに居られる。
0ポイントを無視して集団の輪っかに沿っていこうとしないで済んでいる。
それは楽をする、ということとはちょっと違っていて、ズルをして怠ける、とは違う。
どうしたらより良くなるかをむしろ考えられるし、行動できる。
自分という個体の中で働いている有機的自律運動は個体の中に閉じているのではなく全体の有機的自律運動の中にあるから、自分の中のはたらきがスムーズな時は、外側の世界もスムーズだということとほとんど同じだ。

そして、わたしは再び上京した。
なんで?ってなるよね。せっかく上手くいっているのにわざわざしんどかった環境に戻るのはわけわかんない。
スムーズな流れの中にある時は、自分という個体の可能性が広がる感じがあるから。
今だったらうまくやれるんじゃないか、っていう期待が生まれているのだ。
もちろん、躊躇したし悩んだし、またしんどい思いするのは怖かった。
だからこそ、「今度こそ」っていう気持ちもまた大きくなる。

住む場所を決めて、その町のパチンコ屋さんでバイトをすることにした。
・電車通勤しなくていいこと
・時給が高いこと
・オープニングスタッフだったこと

過去の「働く」の経験から、自分が難しかったことは排して、良かったことを取り入れたら募集の出ていた近所のパチンコ屋さんだった。

パチンコ屋さんでは、いろんな人に出会った。
スタッフも、経営している社長やマネージャーも、お客さんも。
ホール主任の、マイクのやり方や声の出し方、パチンコ玉を入れるケースの取り方持ち方、着ている制服のシャツの首元の感じ、全部覚えている。
特に気にしていなくても、目に入るものは、無意識に記憶されている。30年近く経った今も。
短い数秒の動きの記憶で覚えられていて、ふっと笑うとか、ふっと手を動かすとか、振り返る時の頭の角度とか、そういう断片が残っている。

刺激の素に接して、わたしという個体が受け取って、粒になって、つながり線へとつながっていき、という運動の軌跡がわたしにとっては「記憶」だと前に書いた。
そこに「ジャッジ」は入らない。
どのような刺激の素であっても、等価に、粒になってつながり線になって、という有機的自律運動のはたらきの中にある。

いい記憶、悪い記憶、嫌な記憶、など、自分にとっての都合の良し悪しは、ずっと後になってくっついてくるものなのかもしれない。

わたしにとって、いい、悪い、嫌、というような感情は、遅れてやってくる。

無邪気、ただのバカ、なのかもしれない。
だから、例えひどい目に遭っていたとしても、最初にはわかっていないから、真っ只中に入ってしまっている。
往々にして、手遅れになるのはそういう性質をわたしが持ち合わせているからかもしれない。

話は抽象的になってきているが、大事なことのように思うので消さないで記述しておこう。

私にとって
いい、悪い、嫌、などの感情は
有機的自律運動のはたらきの外にあり、後から合体するもの。
決して、初めにありきのものじゃない。

もし、最初に感情があるとしたら、
過去のある時、はたらいた有機的自律運動の中で、つながり線の軌跡が誰かによってジャッジされた経験の、「思い出し」だ。

わたしは無意識に居る。
そこに、他者のジャッジが入る。直接言われることもあるだろうし、似た状況で他の人が言われているのを聞くこともあるだろう。
それはわたしの有機的自律運動のはたらきにくっついた時、わたしの中で「出来事」として感情を伴った記憶になる。

わたし一人では、「感覚」止まりなのだ。
「感情」は、くっついていないはずのように思う。


ここ数日、ぼんやりするのだ。
季節の変わり目だからかもしれない。
ただ、そういう状態だ、ということだけ受け止めて、できることをしよう。
ご飯を食べよう。
空を見上げよう。
空気を風を感じよう。
吸い込もう。息をしよう。
ぼんやりしたまま過ごそう。


※ここまでに出てきた言葉はまとめています。
ひとりよがりな主観の言葉です。

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