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閉ざされた過去で現在を生きる『ちょうちんそで』(江國香織)

えっ、ここで終わるの?
まだ続くと思って頁を捲ったら、解説が出てきて思考が一瞬止まった。
あ。物語はここでおしまいなんだ。
もうすぐ頂上、と言う手前で梯子を外されたような感覚。
それがこの本のはじめの感想だ。

雛子と絵里子が出会うところまで描かれると思い込んでいたから、こんなに驚いたんだな、と推察する。

なんの関連もないと思わせて、だんだん結びついていく登場人物たちの描写はあまりに見事。ちゃんと読者が気づく隙を、ここぞの場面で差し込む。流石江國さん。

それにしても正直の考え方、行動には腹が立つ。
女性を勝手に母性化しているのは、雛子に捨てられたという過去の記憶が色濃くこびりついているからだろう。絵里子のことを「こんな女が(自分の人生には)用意されていたのだ」と思うところも、きちんと苛々する。用意とはなんですか、用意とは。江國さんはあえてこの表現にしたんだろうな。女性=結婚して子供を産んで自分に尽くしてくれる存在、と無意識に思っているのは母親への反発心の表れか。ささやかな言葉からも正直の内面が伝わってくる。
だからこそ、終盤で絵里子の過去の仕事を知ってしまった正直が愛を翻して家出するのはどうしても滑稽に映ってしまう。用意されていたとまで言った女と愛してやまない赤子を置いて逃げる。子供だ。あまりにも幼い。雛子に置いていかれた過去の正直が、そこにはいた。

一見、過去の中で生きているのは雛子だけのように見える作品だが、正直も、飴子も、誠も、なつきも、そして龍次も、自分の過去にとらわれながら今を生きている。
架空の飴子と話すシーンが度々登場することで、雛子が「もう会えない妹に固執して生きるすこしかわいそうな人」のようだが、雛子だけではない。みんながそれぞれ大なり小なり胸に染み付いた思い出を抱えている。
各々の抱える過去によって、今の行動が支配されている。
ひとりひとりが閉ざされた過去の世界の中で、現在を受け止めて生きている。
そんな作品だ。

それにしても「しょうじき」と書いて「正直」なのも、弟が「誠」なのも、ほんの少しだけ皮肉に感じてしまう。
雛と飴はひたすらに甘やかで可愛らしい。子供時代がいちばん幸せだったとでも訴えかけてくるように。

小人の話題が少しずつ伝染していくように、出てくる人物たちはゆるやかにつながっている。
それでいて、つながりは少しずつ歪だ。
同じ現在を生きていないから生まれる、住む世界のずれのようなものだろうか。

物語の中では、ひとり何も知らない萌音だけがただ真っさらに生きている。
そんな彼女もやがて少しずつ過去を胸に積みながら生きていくのか。父親と母親の結末によって、未来の行動が支配されるかもしれない。そんな影すら孕む。

それでも、ラストシーンは美しい。
雛子と飴子によって紡がれるピアノの音。たとえそれが雛子にしか聴こえなくとも、しんしんと降る記憶のような音は確かにあるのだろう。現在を生きる雛子の耳元に。

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