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何故80年代アイドルPOPSが好きなのだろう②

(その①はこちら↓です。)

(で、そこから更に言及した「その②」は以下の通り。)

80年代アイドルPOPSをつい「ディレクター目線」で聴いてしまうのである。(というのがこの記事の元タイトルでした。)

そして、これこそが、私が「80年代アイドルPOPS」という「沼」(「沼」??笑)にハマる理由なのだとも思う。

(というわけで、久しぶりに「アイドルPOPS記事」も再開してここからしばらく執筆しようかと考えております。)


「もっとこういう曲のほうが合うのに」
「このデビューシングル、A・B面、逆にしたほうが良かったのでは?」
から始まって、
「ここらへんで作曲家を変えてみてもよかったよね」
「何でジャケ写にこの写真使ったんだろう?もっと良い写真あるのに」
ひいては
「何でここまで待ったんだ?せめてあと1年デビューが早ければ!」
「数年後の90年代むしろガールポップ路線に合わせれば大波に乗れたかもしれないな」等々……。
後出しジャンケンであれこれ好き勝手にド素人めが「デビュー計画」「売り出し戦略」を想像しやすいので、無責任で楽しいのである、これがまたね。(笑)


「大衆音楽」という意味での「ポピュラーミュージック」自体が、そもそも大好きな私であるが。
(つまりこれは「売れる・売れない」にどこか価値が置かれやすい音楽が大好きとも言える。――子供の頃からヒットチャートが大好物だったことも相当、この執着の「起因」となっていると思う。)

その中でも、何故「アイドルPOPS」に特化して大好きなんだろう??とふと考える。

ええ、ええ、もちろん、「自作系」の所謂「アーティスト」の皆様のPOPS作品も、それはそれで好きだし大量に聴いている(聴いてきた)のだが。

でも、ここにこうして記事で書けるようなことは、あまり思い浮かばない。「一言何か言いたいですっ!」って感じには何故かならないんだよなあ。
(ま、私自身の音楽の基礎知識というか素養というかがあんまり多くないし広くないし、ということが、先ず第一に大きいでしょうが。)



そもそも「音楽性」――つまり「その音楽自体の良し悪し」、あるいはそこから派生して「個人的好き嫌い」も、「売れる・売れない」はあまり関係ないものなのである。(場合によっては「ファンだけど、むしろこのまま売れないでいて欲しい!」なんて個人的に思ってしまうアーティストさんもいたりするくらいだ。笑)
だから「売るぞ!」というその戦略や勢いも併せてリスナーとして楽しみたい私のような場合、「アイドルPOPSの世界」はうってつけなのである。

あとは、大衆音楽のフィールドでも所謂「アーティスト」を看板に掲げる方々って、「音楽制作において、歌っている本人に主体性がある、言うなればその部分においても責任がある」方々で、となると逆に(というかその分)作品全体に対してリスナーとしては(そういうのはいらないと重々解っていながらも)どこか厳しい目を向けてしまうというところもまたあるかもしれない。
――例えば(あくまで一例だが)「この程度でレコード出せたんだ、へえ~」「こんなのがミリオンなの?」みたいな妬みがどこかにちょいちょい挟まることもこれまでにあった気もするし。(笑)
といっても、これはかつて90年代くらいまでの話ですけどね。――90年代末以降の場合、世間の耳も肥えてきたというか、売れるのは大概「すごい!」「唯一無二の存在だ!」「才能の塊だな!」「真似できねえ!足元にも及ばねえ!」と思える方々のほうが割合として多くなっていったので、あまりこういう方向性の「妬み嫉み」が少なくなったかな?
そして今では、かつては妬み嫉みのその個人的な標的でもあった(笑)「90年代のヒット曲群」も、「そんな時代もあったね」と(生温かい目で)いつか話せる日が来ています。(きっと笑って話せるわ!)
――とはいえ、90年代当時までで言えば、「純然たる音楽要素だけ、として聴き、評価する」となると、それはそれは「至極私的なものなのに厳しい批評目線」をついつい(いらんのに)持ってしまって、「大衆音楽」「ヒットチャートPOPS」というものを語ろうとした途端にどこか落ち着かない、ひいては攻撃的批判的というか疲れるというかツラく息苦しくなるところも、少なからずあったんですよね。(ヒットチャートが好きな分、そっちの「負の感情」も大きくなったんでしょうね……勝手にね。「好き……だから、キ・ラ・イ!」みたいな?笑)

でもアイドルに対しては、そういう余計な「負の感情」が一切湧かない。
一言でいうと、「気楽ゥ~!」「ただただ楽すぃ~いっ!」とでも言えばいいのか。
――ま、これは当然というか必然というか。
だって「自分自身がアイドルになる」という可能性は、この人生において、生まれて此の方ゼロに等しかったし、今後もゼロからだ。(「妬み」を入れる余地がない。――幸い、アイドルという存在まで本気で妬んでしまうほど、私は「自分を客観視出来ない人間」判りやすく言えば「勘違い野郎」ではなかったのだ、めでたしめでたし。)(そして「可能性が皆無」ということについては「永遠」がそこにある。笑)
言うなれば、アイドルPOPSは、私にとって「絶対的に手の届かぬ別世界」なのであり、であるからこそ、余計な邪念が永続的に入らず、「純然たる異次元」――「大衆音楽・ヒットチャートPOPS鑑賞の対象」になれるものなのである。

あと、自作系アーティストは、売れようが売れまいが、つまり「レコード会社を通しての商売が成立しようがしまいが」ある程度リスナーが既にいるなら、そんなの関係ない所で続けていく価値があるわけだし――むしろ「そのアーティストの好き勝手に続けていくこと」のほうこそが、その表現活動に於いて何より大事なことではないですか?
事実として(繰り返しになるが)売れる売れないは、そもそもその音楽の質にあんまり関係ないわけであるし(というこのことには大昔から多くのPOPSリスナーが既に気づいていたであろうし)、だから「音楽ビジネスとして成立した・しない」には、はじめから「着目し甲斐がそこまでないもんね?」更には「売れたからって何だっていうの?」「商売上手と音楽性は別の話だからね?」というところもまたあるわけである。
それに対し、アイドルというのはなかなか(ひと昔前までに限定すれば)そうはいかない。――「一度も売れたことはないけど、私は永遠のアイドルなのです」なんてなことを80年代中に宣ったなら、それはちょっとした「ショートコント」に化してしまう時代であった。
言うなれば、(今ならいくらでも散見できる)「自主公演のライブだけでも活動していく」とか「表現したいからレコード会社に所属せずとも音楽活動を続けていく」とかそういうのがなかなか成立しないのがそもそも「80年代までのアイドルPOPS」の世界であり、私にとっては「THE 人気稼業」というそこが「かえって面白い(面白かった)」のかもしれない。
(なので今どきの、自主的に公演を打てる「インディーズ系アイドル」に自分の食指が動かされないのは、そういうことなのだろうな。)

そう、表現者である「本人」よりも、「周囲の人間達」がワサワサ・ザワザワと小さからぬ音を立てて大勢で寄ってたかって「弊社の商いとして成立させねばっ!」というところを第一目標、というか「大前提」に掲げて奔走する――そういう「お祭騒ぎ」の「お神輿担ぎ」が必須な存在が(ひと昔前までの)「アイドル」なのであり――レコード会社という一大企業や、芸能事務所周りの少なからぬ大人達が、躍起になって、「この娘を使って、いかに少しでも売れる(利益が出る)レコード・CD等の音楽作品を作るか?さあさあ!作らねばッ!」とやっている、その、ジタバタした「夢」言うなれば「一大プロジェクトX」を、外野で眺めて味わう、この感じもまた楽しいのだ。
そしてその商いの対象が、「世間」「一般大衆」の「広範囲に向かっている」というそのことも(個人的には)大事な要素なのかもしれない。――「地下でもいいから、一部のアイドルファンに愛されれば」という目標設定では、80年代までは、なかなか商業的に成立しにくかったのではないか?とも思う。
つまり80年代までのようなケース(「アイドルを売り出す」言い換えれば「商業として成り立つスターに育て上げる」にあたり、「時代」や「社会全体」を相手にせねばならない場合)では、「戦略」とか「事務所の力」だけではどーにもならないのが常だったし(大きな事務所で戦略宣伝と作品の質バッチリでも何故か売れなかったアイドルはいくらでもいた)、その「残酷な分、夢があるよね」な感じこそもやはり面白ポイントなのだ。

そして、特に80・90年代の話ともなれば、それは完全に「過去」であり、「時代が証明している」風なことも、私みたいな素人でも簡単に検証出来たりもする。――俯瞰でその「売り出し」の「結果」まで、言うなれば「全貌」を、眺めれられたりする訳である。
メチャクチャこれ、ワタシ的には楽しいようである。


最近、サブスクで80年代アイドルの「デビューシングルのB面」を聴くのにハマっていたりする。(全80年代アイドルのA面はさんざん聴き倒したので、そっちに手を伸ばし始めたとも言える。)
(そして、サブスクはやはりありがたい!だってすんごく簡単に探して聴けるんだもの!!)

――もちろん「どうしてこの曲をデビューシングルのB面にしたのだろう?」とか、「そーいうどーでもいい本来なら要らんことを・わざわざいちいちぐちゃぐちゃ」考えながら聴いているわけである。

そうね~。……まず、デビューシングルって「第一球」だから、勢いと緊張感があって、それが良いのですわ、うんうん。――「勢い余って」とかそういうのも含めて楽しい。
何というか、シンプルに、聴いていて元気が出ます、ホントに。
(春です。笑)

90年代も聴いてみたけど、やっぱアイドルPOPS華やかなりし(つまり「大爆発・大ブレーク」つまり「化ける」可能性がまだ大いにあった)80年代のほうが、これについては「夢の輝き」があって面白いかなあ。(端的に言うと目に見えて「キラキラ」しております。)――「ポスト聖子発掘の野望」や「明菜ドリーム」を、業界全体がまだ見られていたのが、80年代までで。
アイドルPOPSに関しては、90年代に入ると、どこか作り手側にも「フツーのアイドルPOPSって80年代のようにはどーせ売れないもんな?」という「(スタート時点から既に)諦念」、あるいはそうでなければ「第一球からめちゃくちゃ変化球」(ま、「第二の森高」狙いみたいな感じでしょうか)が入っていることが多いんだよな。
――88年に弾けた森高さんの「ミーハー」等の作品は、制作における「熱量」を維持したまま、でもどこか割り切った上で、狙って打ち返してないからこそあのフォアドライブがかかって点が取れた(ブレイクに繋がった)わけで(やられた!と、時代にハマるってそういう感じですよね)。
だから、そういう「偶然性」つまり「不意打ち」ではなくて、「始めからソッチ系に狙い定めて画策」して捻ってピッチャーが投げ込んだ変化球となると、結局は大体つまらなくなってしまって(世間のアイドルPOPSリスナーとは、キャッチャー的にど真ん中にミットを構えている存在という側面もあるわけだし、そうなると)ただの明後日の方向(暴投)になりがちなんですよね。


……とかなんとかそんなこんなをブツブツと、「独りごと」言っているうちに、またそれで一記事くらい余裕で書けてしまいそうだな?なんて考え中な私なのである。(笑)