無限の可能性を忘れていないか?
死に近づいている父に会って数日後、娘の第三子が誕生した。
この世に新たな希望を抱き生まれた。その生命力の強さに感激した。
ただ、妊娠前に赤ちゃんの腎臓の大きさが問題となり、誕生後「水腎症」と名付けられた。そのため、大学病院で出産し、今までに経験していない産後を娘夫婦は経験している。その夫である大亮は出産から今日まで「無力」だという言葉を何度かつぶやいている。
確かに、出産は彼にはできないし、病気を代わってやることもできない。
が、本当に「無力」だろうか。
わたしはこの数年自分の霊性を高めるワークを通して様々なことを学んだ。
いや、思い出した、の方が正しい。
魂はこの世に生まれると決めた時、自分の魂の経験に最適な器(部族的信念(※1)や身体的な機能・環境を含む)を選び、これまでの反省をいかし実践しながら、霊的成長(※2)を促していく。様々な因縁に足元を救われそうになりながらも、本来の目的(人によってさまざま)を果たすべく、様々な出会いを経て自分を知り、何度も試しながらより高次の魂(※3)へと成長していく。
この学びから言えるのは、生まれてきた赤ちゃんはすでに自分自身の運命を引き受け、その環境で自分を成長させようと揚々と生まれてきたということだ。
とすれば、すでに病気をもっていること、それに対してどんな困難があり、それをどう乗り越えるのか、ということが彼(男の子なので)の魂の成長への第一歩なのだ。
その観点からするとあかちゃんの父である大亮は本当にやれることは何もないのだろうか?
人が「無力」と感じる時、それは自分が想像できる限りのやれることができないと諦めたときに起こると思う。
とすれば、単純に大亮は自身の想像の範ちゅうで生きていることになる。想像できるということは過去に経験した、もしくは実現可能な行動に絞られる。それでは「成長」につながらない。
人は、いや魂はこの一生でできる限り高次へと成長しようと願ってやまない。とすれば、これは大亮の魂にとって絶好のチャンスでもある。
ちっちゃな命、息子の魂によって、父へもたらしたプレゼントのようなもの。見逃すにはもったいない。受け取るに値する。
生まれたばかりの命だけが可能性に満ち溢れているわけではない。その可能性はすべての魂に平等に与えられている。
わたしも彼の誕生がまた忘れていた希望を思い出す良き機会となった。
そしてまだ未消化でやり残している事柄にも気づいた。
まだわたしが知っていて伝えておきたいこと。
魂のこと人生のこと。どのように自分を活かし、希望を持ち続けるかということ、などなど。
家族だけではなく、この地球に生まれてきたたくさんの命、魂たちともつながりを忘れていた。まだまだわたしにもチャレンジすることがたくさんある!
先送りせず、今できることをひとつひとつ確実に実行し、「あーこの人生楽しかったなー」って終わりを迎えよう。
この世にいる魂はみな「無力」ではなく「有力」だ。
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