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大伴部博麻

今回、取り上げる人物は大伴部博麻です、自ら唐の奴隷となり日本を救った英雄です!是非最後までお読みいただけると幸いです。

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大伴部博麻は日本を救った古代の英雄であります、『愛国』と言う言葉がありますが、この愛国という言葉が最初に用いられたのが西暦690年です、持統天皇4年、持統の4年の時期という事になります。


持統天皇は女性の天皇であり、天智天皇の奥さんでした、そのご主人の天智天皇が亡くなり、急遽持統天皇が引き継ぐという形になります。


日本書紀にも非常に優秀な天皇であったと書かれてます、この時代は白村江の戦いの敗戦とていうもの影響がすごくあったのです!

白村江の戦いについてはこちらの記事をご覧ください👇




持統天皇に関する物語を語る上でこの!大伴部博麻のご紹介をしたいと思います、大伴部博麻はその名の通り大伴氏の一族であります。

九州の屋根市の出身で大伴氏の一つの部族の博麻という名前の1人の青年だったわけです、この時代とある徴兵があり白村江の戦いによって、各村から青年達が招集されたんです。

招集されて朝鮮半島に渡って戦いますが、日本は大敗してしまいます、負けて我が国は半島における権益をすべて放棄して、国境を朝鮮海域に後退させました博麻はこの時、唐軍の捕虜になってしまうのです、そして唐の都長安連れていかれます、長安の奴隷階級配布されるのです、当時の奴隷いうのは、捕虜だからといって、幽閉されるわけではなく

長安に連れてこられただけで、その中では人は食べる生き物ですから、費用がかかります、なので拘束されることなく自分で生活するように命じられます!ところがある日博麻が街を歩いていると、唐の兵隊達が集まって話しているのを見かけ、その話の内容は「次は日本に攻めようという事が決まった」くという内容の話を耳にするのです!

これは一大事だと白村江の戦いでて大きな被害が起こり、まだ国力が整っていない状態で唐の大群が攻め込んできたら、これは日本は大変な事になるではないかという事で

なんとかしてその危機を日本に伝えないと、ということなのですが、奴隷の身分なのでお金がありません、長安から日本まで旅をするのは、これ大変な事です。

そこで博麻は4人の先輩達に土師連富杼(はじのむらじほど)、氷連老(ひのむらじのおゆ)、筑紫君薩夜麻(つくしのきみさちやま)、弓削連元宝(ゆげのむらじのがんほう)に話をを持ちかけ「先輩俺を奴隷に売ってください!俺を売れば金になる」当時が人間お金になるの、その金を旅費して日本に帰って「唐が日本を攻めようとしている」と伝えてもらおうと!自分が犠牲になって奴隷となりました。

博麻は奴隷に売られて、その売却代金をもとに、4人は衣服、食料、旅費を調達して日本に向かいました、ようやく対馬に上陸した4人は対馬守(つしまのかみ)に報告し、対馬守は筑紫国大宰府政庁にこれを報告、情報は天智天皇に奏上されました、情報は生かされ大宰府沿岸を強化し、そして都を近江に移して防衛をはかられました。

ひとり唐の地にとどまった博麻は、奴隷としてそのまま20年過ごし、そして知り合いの唐人から「日本に行くが一緒にこないか?」と声をかけられ690年10月、ようやく30年ぶりに祖国に土を踏むことができました


なんと30年間奴隷になりやっと30年後に博麻は帰ってくるのです、その時に持統天皇が在中でその持統天皇が直接博麻に面談します。

この時に、持統天皇が大友部博麻という白村江の戦いの頃の一人の青年だった!そこから30年たって二十歳の青年だった男は50歳になり、その博麻がかつての、日本を危機を伝えてくれて、その時に身分を奴隷にまで売ってくれた、その事を本当にありがたい事に思うと直接、天皇が一平民に対して勅語をかけたのです

そこで語りかけるというのは日本の歴史のが126代の令和天皇に至るまで、天皇が1個人に対して詔を与えるって言うのは、このただ1回なんです、それだけも名誉なことをしたという事です

この時に持統天皇が大伴部博麻に与えた詔の中に愛国という言葉があり、それが実は現在でも石に大伴部博麻の碑として、刻んで残っているのです。

その勅語というのが


国を思い、身を捨てても、国にすなわちみんなのために尽くすことへの

朕、朝(みかど)を尊び国を愛い、おのれの身を売ってまで忠(まなめるこころ)をあらわせることを嘉みす

愛国とは、軍国主義と戦争など思もわれがちですが、持統天皇の時代つまり7世紀には、すでにもうこの「愛国」と言う言葉が国内で使われていました、しかもすぐ読みというのは国を想うことであるりました。


そして国を愛しく思う、そし朝廷を尊う!その事を持統天皇はその博麻の志に感銘を受け、この時に詔を発せられたのです、なので大伴部博麻の精神っていうのは本当に大切なことだと思いって詔を博麻に授けました。

さらに、大伴部博麻は、一平民でありながら国家を思って、尊朝とありますが国家を思って我が身を奴隷に売り出すという事をされました。

日本では、7世紀には既に国民国家としての概念日本という国を1一民間人が、国を思うというそういう概念を持っていたのです!

ちなみにヨーロッパでは国民国家の概念は19世紀になって初めて登場したとされていますが、日本には7世紀にはもう一般的なものとしてあったのです!もすごく大きな事だど思います!

色んな国の武勇伝みたいなものに、王様のために身を捨てるとか、そういうものはありますが、博麻はリーダーの1人の身代わりではなく、国っていうのは一人の人ではなくて国っていうのは法人であり!

形のないものです、その形のないものに対して注意の心を持ち、を思うという、その概念を明確に身を持って示したのが博麻です、そのような偉大が平民がいたというこの事を、よくで私たちの記憶として、しっかりと受け止めるべきなんじゃなかろうかなと思います。


最後までお読みいただきありがとうございます。


参考文献👇

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