小説「春枕」第三章〜夕されば蛍よりけに燃ゆれども(1)〜
夏。
熱く胸を焦がす季節。
「若菜さん、こんにちは。いらっしゃいませ」
いつものように、春花さんが笑顔で迎えてくれる。
わたし•緑川若菜と春花さんは、和歌を愛する人が集う同好会で知り合ったお友達だった。
普段は他愛のないことで話に花を咲かせるが、今日はどうしても、彼女に聞いてもらいたいことがあった。
「ねえ春花さん。夏といえば、何を連想しますか。」
「うーん…青空、太陽、入道雲、向日葵、風鈴、スイカ、海、花火、盆踊り。子どもの頃に過ごした夏休みのイメージが強いです」
「肝心なことを忘れていますよ。和歌で夏の夜といえば?」
「あ!蛍、かしら」
「そうです。さすが、春花さん」
謎かけに正解した春花さんは微笑み、わたしはこう続ける。
「実はね、わたしが大好きな歌があるんです。毎年夏が来ると、思い出す歌。
夕されば蛍よりけに燃ゆれども光見ねばやひとのつれなき
二十歳の時、大好きな人がいたんです。その頃わたしは大学生で、和歌に興味を持ったばかり。この歌を知った時、自分のことを歌っているんじゃないかと思いました。
夜になれば蛍よりも明らかにわたしは恋心を燃やしているのに、この光が見えていないのだろうか。愛しいあの人はつれない…。」
「切ないですね…。」
「一応、お相手とお付き合いするかどうか?まで話は出たのですが、ダメになっちゃいました。
わたしもこの歌の蛍と一緒でした。身を焦がして恋心を燃やしている。あなたが愛しい、わたしのこの想いに気づいて欲しいと、命懸けでこの身を燃やしている。それなのにあの人は、つれない。
わたしはこの想いに気づかれないまま、恋の炎で身を燃やし尽くして、死んでしまいそうでした。苦しくて、だから離れたの」
春花さんは黙って、私の話に耳を傾けてくれる。
「あの人に、振り向いて欲しかった。でも、無理だったんです。
そして、もう二度と会えないの。深く傷付けられて、深く傷付けてしまったから。」
わたしはわざと明るく言い切った。
(つづく)
※この物語は、フィクションです。
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