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想いが受け継がれて “倭姫命版”ヒーローズジャーニー49ことの葉綴り一〇二四

寒い朝

おはようございます。十二月十九日(月)。八時を過ぎて、気温がようやく1度になりましたが、一気に真冬の寒さですね。
皆さん、温かくしていますか?
暦は、六曜は「赤口しゃっこう」で、お昼前後の正午が吉。十二直は「やぶる」で、物事を突破する日。人を説得したり、訴訟、家屋の取り壊しに吉。二十八宿は「心」とかいて「しん」で、神仏の祭祀、お参り、引越し、旅行に吉。そしてご神事やお参りによしの「神吉日」です。
今年も残り二週間、皆さん、お元気でお過ごしくださいね。

“倭姫命版”ヒーローズジャーニー49

天照大御神さまを、伊勢の神宮にお祀りされるまで、皇女二代のご巡幸の旅の物語と綴った『倭姫命世記やまとひめのみことせいき
皇祖神の御心のままに、旅をされたのは崇神すじん天皇の皇女、豊鋤入姫命とよすきいりひめのみことさまと、その姪っ子で、垂仁すいにん天皇の皇女、倭姫命やまとひめのみことさまでした。
これを、「英雄は旅立ち、仲間とともに成し遂げ帰還する」という「神話の法則」として読みといています。

二代、八十年以上の歳月をかけて、数々の困難を乗り越えて、やがて伊勢の宇治川の川上に、天照大御神さまをお祀りされました。
伊勢の神宮です。

倭姫命世記やまとひめのみことせいき』の物語では、「倭姫命の薨去」の段落は、内宮こと皇大神宮がご創建されたあと、五百年後、外宮、豊受大神宮のご創建後となっています。

そんなことから、倭姫命さまは、何人もいらしたのではないかとも言われています。

この倭姫命さま薨去のところは、
「第三十八段落 皇大宮の託宣を二所広大神宮の宮人に伝えて薨去する倭姫の命」
と、あります。

ここで、皇大神宮に仕える人々を集められて、天照大御神さまをお祀りする心、その精神を、“遺言”のように遺されたのです。
(これは次回にでもご紹介しようと思います)


倭姫命御陵とは?

そして、倭姫命さまは、皆のまえで大切な心を明らかにお告げになられたのち、

“自ら尾上の山の峯に退き、石隠れ坐しましき。”

ご自分から尾上の山の峰に退かれて、お亡くなりになられた……。

伊勢市楠部町、倉田山の一画に、倭姫命さまをお祀りする「倭姫宮」がご創建されて、来年、令和五年(2023年)がご鎮座百周年記念年になります。

では、この「尾上の山の峰」とはどこなのでしょう。
伊勢市の「尾上町(おのうえちょう)」があります。
ただ、こちらは、明治時代になってからの地名だそうです。
倉田山の近くに「倭姫命宇治山田陵墓参考地」(伊勢市倭町)があるそうです。
こちらが、「倭姫命御陵」ではないかとされているそうです。私もまだ行ったことがありません。

ただ、こちらの陵墓参考地として、御陵という言い伝えがあり、そこからこの地域は、明治に入り「倭町(やまとちょう)」となり、明治42年に、宮内庁により「陵墓伝説地」となったそうです。


倭姫宮

「お大切に」の想いが受け継がれて

地域の方は、二千年近く、ずっと倭姫命さまのご巡幸、そして伊勢の神宮に天照大御神さまをお祀りされたご功績を、親から子、子から孫へと、ずっと言い伝えて伝承されてきたのでしょうね。
だからこそ、近代にはり明治、大正時代に、「倭姫命さまをお祀りしたい」という願い、思い、倭姫命さまをお慕いするこころが集結し、大正十二年に、「倭姫宮」ご創建が叶ったのです。

その「お大切」にと思うこころ
二千年の間、受け継がれてきた崇敬のこころ。

これは、伊勢市の倭姫宮のご創建に関わられた皆さんだけではなく、倭姫命さま、豊鋤入姫命さまが、ご巡幸された旅の各地で、「お大切に」守り、受け継ぎ、伝承し、祈りを捧げられていました。

人の、こうした祈りのこころ……
目には見えませんが、それでも人から人へ、幾星霜の時を超えても「お大切に」という、心の柔らかな清らかなところにつながり、あたたかいもの……
ただ、「ありがたく」手を合わせたくなるこころ。
「おかげさま」がわき上がるこころ……

私たちの先人方は、こうした尊いものを、今にうけついで、バトンを渡してくださったのだ……。
そう感じると、私の心も温かく柔らかくなる気がします。
ありがたい……。

私は、きっとそんな、”温かくなる柔らかいもの”を伝えたいのだな~と思います。

倭姫宮

―次回へ

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