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ポロリとこぼれ落ちる感じで

受験シーズンになると、たまに思い出すことがある。
昔勤めていた会社でのこと。ある女性が、息子さんの高校受験が終わった時にこう言った。
「うちの息子はね、〇〇高校にいれたの」
そこはいわゆる名門校だったので、「すごいですね!」とその場は盛り上がったんだけど、私は内心、彼女が”いれた”という言葉を使ったことに引っかかっていた。

「息子が〇〇高校に”はいった”」
のでもなく、
「息子を〇〇高校に”はいらせた”」
のでもなく、
「息子を〇〇高校に”いれた”」
と、お母さんは言ったのだ。

これら三つの表現は、上から下に向かうほど「息子さんが成し遂げたこと」というニュアンスは消えて、「母である私が成し遂げたのだ」という意味が強まっていく。
「お人形をプレゼントの箱に”いれた”」
と言うときと同じ言葉を使うお母さんを前に、私は内心、「息子さんが聞いたら傷つくだろうな……」と思っていた。
そりゃあお母さんも受験生の母として頑張ったんだろうけど、息子さん自身の頑張りはどこに行っちゃったの??

こんな風に、誰かがある瞬間、どんな言葉を選びとるかということが、その人の心の内をあぶり出してしまうことがある。
例えば今、あなたのそばに誰かが立っているとして、そのことを不快に感じているなら、
「そこに”いられる”と、困るんだけど」
といった表現になるだろうし、反対にありがたく思っているなら、
「ちょうどいいところに”いてくれた”!」
となったりする。目の前にある状況は同じでも、私たちの感情が、使う言葉を左右する。

こんなに繊細な言葉の使い分けを私たちは自然に行っていて、それが自然である分だけごまかしは利かず、ぽろりと本音がこぼれてしまったりする。しかも、本心をさらけ出している当人は、案外そのことに気づいていなかったりするから余計に厄介。
私も絶対にやらかしていると思う。
「口は災いのもと」と言われるのには、ちゃんと根拠があるんだなとつくづく思う。

#日記 #エッセイ #コラム #言葉
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