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珊瑚

好きになった人には、既に妻と呼ばれる人がいた。

たったそれだけの事実が、ただひとつだけの真実だ。誰かを好きになってこんなにも悔しい気持ちになるだなんて、数年前の自分にはたぶん分からなかったことだろう。私は大人になったのだ。大人になってしまったからこそ、この気持ちが分かるようになった。

「好き」だけじゃどうにもならない恋がある。

大人と呼ばれる年齢になってから、それを痛いくらいに感じてきた。昔はただ「好き」であればそれですべてがクリアされていたというのに、大人になるとそこにいくつもの条件や制約や要素が付与されていく。あんなに絶対的であった「好き」では抗えない強大な力が生まれてしまうのは、一体どうしてなんだろう。

もしも彼が彼女と結婚する前にわたしが出逢っていたら。もしも私の年齢がもう少し上だったら。彼女みたいに彼と同じ学校で学生時代を過ごせていたら。きっと、彼を振り向かせるくらいの努力は惜しまなかった。少なくとも絶対、始まる前に諦めるなんてことはしない。それくらい、素敵な人だなと思ったのに。すごく久しぶりに、女でよかったとさえ思えたのに。

既婚者はせめてみんな指輪をつけるように法律で決めてほしい。そうしてくれていたら、彼との恋愛を夢見ることもしなくて済んでいたかもしれないじゃない。そうしたら、こんなにどうしようもない気持ちになる必要だって無かったのに。こんなに、会いたいって思い続けることも無かったのに。

「妻です」なんて紹介、はにかみながらしないでほしい。「幸せだよ」なんて言いながら、真剣な瞳でわたしの話も聴いてくれるなんて本当に最低。最悪。馬鹿じゃないの、って思う。

奥さんがいるのに冗談で「付き合おっか」なんて言う男は最低だし、でも「離婚はしないな」とも言ってほしくない。できれば何も言わずに私の記憶の中から出て行ってほしいくらい、本当にどうしようもなくて、本当にもう勘弁してほしい。

せめて奥さんが私とは真逆のタイプで、スタイルも良くて、感じもよさそうな素敵な人だったらいいのに。到底敵いっこなかったって思わせてくれればいいし、彼の好みじゃなかったんだって、女として諦めさせてもらえたら少しは心が楽になる。わたしの方が、わたしだって、なんて、そんな虚しいことを考えさせないで。せめていい子でいさせて、これ以上自分で自分のことを嫌いにならないで済むようにしてよって、そんな悲しい願い事さえしてしまう。

わたしと結婚した方がもっと幸せになれるのに。

わたしと一緒にいた方が、きっとたくさん笑えるのにな。

あなたがどんなに駄目な男になったとしても、わたしはずっとあなたの傍にいるよ? ちゃんとあなたのこと、支えていくよ? なんて、必死過ぎるにもほどがある大好きアピールは心の中で唱える。彼と同級生で、大学時代から一緒に居る、きっとすごくいい人でもある彼の奥さんを想像しながら。素直に負けましたなんて、分かっていたって言いたくない。

口にもできない、どこにも届けられない、迷子になった「好き」はわたしの中でぐちゃぐちゃに育っていく。嫉妬なんてしたくないし、本気になんてなる必要もない。本気で好きになる前に知れてよかった。それくらいの気持ちでいるのも事実で、多少強引にでも終わらせようとも思っている。もう連絡をしなければいいし、もうメッセージを読み返すのをやめればいい。わかってる。大人なんだから、自分の中から誰かを追い出す方法だってちゃんと知っている。

それでもあと少し、もう一度だけ、って。だっていつか彼が奥さんと喧嘩して、フラれて、離婚するかもしれないじゃないって、考えてしまったりもして。最低だけど、でも、「そんな性格だから付き合えない」なんてフラれ方すらできないんだ。少しくらい意地悪な希望を抱いたって誰にもバレないのなら、少しくらいは自分を甘やかしたいと思う。

本気になんてなってない。好きになりかけていただけ。まだ入り口だから大丈夫。

そんなことを言い聞かせている私は、既に彼に恋をして好きになってしまっているのだから。

過去の何でもないやり取りを見返して、せめてこのメッセージの最中くらいは私のことをいい子だなとか可愛いなとか思っていてほしいと思う。次に彼に会う時だって、きっと私は目一杯のお洒落をして行くだろう。そして「あなたは既婚者でしょう」ということを嫌でも自覚するようにお喋りをしてあげる。こんなに可愛くてこんなにいい子をあなたは逃すのよ、独身だったら付き合えたのに馬鹿ねって、楽しそうににこにこしながら呪ってあげるの。

もう少し早く出逢っていれば、って、彼も思っていてくれたらいいのに。

一人しか座れない、先約有りの特別枠。

そこに座っている奥さんを思い浮かべて、コーラルピンクのマニキュアを塗ってみた。この手で彼の手を握ることを想像したりして、一本一本丁寧に指先を彩っていく。コーラルピンクはてかてかと色を放ち、小指のシルバーリングは電灯の橙色を跳ね返す。

どんなに綺麗に塗ってみても、やっぱり私にはコーラルピンクは似合わない。

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どうしようもない恋心について。

女の子という生き物について。

強かで、愚かで、可愛らしい彼女たちについて。

さいきんこういう、大人の恋は「好き」だけじゃもうどうにもならないんだという話をよく聞きます。

(という、昔に書いた下書きを発掘した)

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