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『翻訳文学紀行』編集者感想:ヨアンナ・バートル作『ウサギの年』(中井 杏奈・鈴木 雪 訳)

(本記事には、作品の詳細や訳出箇所の結末などに関する言及がございます。まだ当該作品を読んだことがなく、新鮮な気持ちで物語を味わいたいという方は、ご注意くださいませ。なお、まことに申し訳ございませんが、本作品が収められております『翻訳文学紀行』創刊号は、原作者の著作権保護の関係上、既に絶版となっております。あしからずご了承くださいませ)


 ポーランドの作家 ヨアンナ・バートルの『ウサギの年』は、『翻訳文学紀行』の創刊号で最も反響が大きかった作品かもしれません。編集者としても、この作品は、海外文学愛好家、とりわけ、中東欧文学が好きな読者の心をくすぐる作品だと思い、最初に掲載した次第です。

 女性の失踪というミステリアスな物語、露悪的なまでに畳み掛けられるグロテスクなイメージ、そしてその背後に見え隠れするポーランドという国が抱える歴史の影。その書きぶりは、バートルの母国ポーランドの作家ヴィトルド・ゴンブローヴィッチや、2019年にノーベル文学賞を受賞したオルガ・トカルチュク、隣国チェコの作家ボフミル・フラバルを連想させもします。

 『ウサギの年』の第一章は、スランプに陥った歴史小説家ユリア・ムロクが、アンナ・カールという新たな人格を手に入れて、ワルシャワ駅から、飼い主の魂が乗り移った凶暴なウサギが徘徊する町ゾンプコビツェ・シロンスキェへと旅立つまでの過程を描いています。訳者あとがきによると、同書ではその後、購入した偽造証明書の人物になりきり、ゾンプコビツェ・シロンスキェのホテルで奇妙な人々と遭遇しながら、自分が何者なのかを追及してゆく様子が描かれてゆくようです。つまり本書のテーマは、簡単に言うと、自分探しの旅だということができるでしょう。

 けれども、『ウサギの年』に描かれる主人公の旅は、「自分探しの旅」と聞いた時にわたしたちが思い浮かべる私的なイメージとは少しずれるように思われます。この物語は、ユリア・ムロク/アンナ・カールのアイデンティティの究明を描きながら、ポーランドの人々の間で共有されている歴史的問題や、現代社会における女性という性のありようなどといった問題を映し出してもいるからです。

 例えば、主人公ユリア・ムロクは、アンナ・カールの身分証を受け取りながら、自分と同じく新しい人格を手に入れて失踪しようとしている同郷の人々に思いをはせています。

偽の兄弟姉妹たちは人生を最初からやり直せることに胸を躍らせている。少なくとも、昔の人生のもっともおぞましい部分は置き去っていくことができる。そしてこの国で年間に失踪する二千人ほどは、生きているか死んでいるかに関係なく、二度と見つかることはない。[18頁]

つまり、失踪するユリア・ムロクは決して特別な存在などではなく、「この国[ポーランド]で年間に失踪する二千人」のうちのひとりなのです。こうした描写からは、ポーランドという国の現実を読み取ることができます。

 ポーランドは、非常に多くの移民を生んだことで知られています。歴史的にみても、ポーランド解体や第二次世界大戦中のユダヤ人迫害、共産主義時代の粛清などといった事件の度に、非常に多くのポーランド人が故国を去っていますし、現在も2004年のEU加盟によってEU圏内における労働の自由が認められてからは、ますます多くのポーランド人労働者が国外に流出していると言われています。本書における失踪が、こうしたポーランド人移民のイメージに基づいていることは明らかです。

 ただし、この作品で描かれるのはあくまでも「失踪」であって、現実社会で起こった、あるいは、起こっている「亡命」や「移住」ではありません。しかもそれは何よりも「女性の失踪」なのです。ユリア・ムロクは、失踪計画中に、数々の女性の失踪事件に関する記事を読み漁って、自分の行く末を想像しています。ここで彼女は決して男性の失踪者に関心を寄せることはありません。このことは、彼女の失踪が女性であることと切り離して考えられないということを証明しているように思われます。実際、失踪に踏み切る前の彼女は、アレクサンデルとアルという二人の恋人との同棲生活や、自身の容姿に対する嫌悪感に苛まれています。作家としてのスランプ状態も、どうやら恋人との関係が原因のようです。恋人との関係や、身体醜形障害、恋愛と仕事のバランスなどといったテーマは、現代の女性を悩ませる典型的な問題でしょう。女性の失踪というイメージを使って、作者ヨアンナ・バートルは、自身が置かれている状況を苦痛に感じ、逃げ出したいと感じている様々な女性の本音を代弁しているのかもしれません。

 さて、様々な問題や人間関係にからめとられたユリア・ムロクという人格を捨て去るにあたって、主人公が古い人格の中から唯一救い出すのは、書くという行為です。

書くという作業はわたしにとって唯一確かなものだった。アレクサンデルとアルを失ってからさらに、書くことが自分にとって唯一の確かな行為になったのだ。書いている限り、わたしはわたしだ。[43頁]

ここでは、書くという行為(それは、決して「作家である」ことと同義とはみなされていません)が、主人公のアイデンティティの根幹をなすものとして描かれています。このことを改めて確認することで、主人公は、アンナ・カールとしての人生の第一歩を踏み出す勇気を得るのです。こうした描写からは、書くという行為を信じれば、人生をやり直すことができるはずだという彼女の強い確信を読み取ることができます。この書くという行為に対する絶対的な信頼感は、彼女が失踪前にすでに書き始めている新たな物語の内容にもあらわれているように思われます。

新しい歴史ロマンスを書き始めて、立ちはだかる運命の鍵を乗り越えて打ち克つという、自分自身でつくりあげた女性キャラの活躍する物語に身を任せたとき、アレクサンデルとアルの関係の中に感じていたその呪縛が溶けたような気がした。[39頁]

ここで言及されている新しい歴史ロマンスの女性キャラが一体どんな人物なのか、今回の訳出箇所では詳述されていません。ですが、わたしは、主人公が長いスランプの末に身を任せることができるようになった女性キャラとは、彼女が手に入れた新しい人格、アンナ・カールなのではないか、という気がしています。読書や文学創作には、現在の自分とは異なる新たな人生が追体験できるという側面があります。登場人物の人格を通して夢中で物語を追ううちに、思いがけず、個人的に抱えていた悩みへの答えが見つかるときもしばしばです。『ウサギの年』の第2章以降で展開されるゾンプコビツェ・シロンスキェでの奇妙な旅は、新しい人格を得た主人公の再生の旅であるとともに、主人公の創作の旅なのかもしれません。だとすると主人公は、アンナ・カールの物語を書く/体験することで、自分を縛っていた数々の問題から解放されてゆくのだと言うことができるでしょう。


 さて、ここから展開されるアンナ・カールの物語については、すでに多くの読者の方からお問い合わせが届いています。
「続きは出ないんですか?」
実は編集者のわたしも、みなさんとまったく同じ気持ちでおります。アンナ・カールは今後どうなるのか? 凶暴なウサギは退治されるのか? 主人公の双子は本当に存在するのか? これほど続きが気になる物語もそうそうありません。
 先日訳者のひとり、中井杏奈さんとお話ししましたところ、ゆっくりとではありますが、翻訳は進行中ということです。きっとそのうちどこかの出版社から全訳が刊行されるはず。ゾンプコビツェ・シロンスキェを巡る奇妙な旅について各々想像をめぐらしながら、日本語版の『ウサギの年』の出版を気長に待つことといたしましょう。

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