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ブルノ滞在記④ アパートに引きこもる。

今朝は5時前に起床。時差ぼけのせいか、いつも2時くらいにトイレに目が覚める。その後うつらうつらしたが、結局5時前にはこれ以上寝られないと観念した。午後に昼寝でも取ろう。

そうは言っても朝食を食べるには早すぎる気がして、読みかけだったイ・ランの『話し足りなかった日』の残りを読んだ。最初にイ・ランを読んだのは29歳の時。普段欧州に住んでいる友達が帰国した際に、「これ、とてもよかったから」とプレセントしてもらった。『悲しくてかっこいい人』はまさに、30歳を前に学術研究を辞め、非正規労働をしながら文学活動をするという社会的にも経済的にも不安定な生活を送っていたわたしの心を揺さぶるものだった。わたしは彼女にすごく似ていると思った。一方今回読んだ『話し足りなかった日』は、東アジアでアーティスト活動をしながら生活していくことへの葛藤や困難が綴られている。また後半では、自分が過去に受けた性暴力を思い出す時に感じる怒りや悲しみ、そして、友人の病や死に直面した時に感じた痛みについても書かれている。

特に印象深かったのは、末期癌の友人を助けるために行われた、「痛みについて語りたいのです」と題されたチャリティイベントに関するエッセイだ。「あえて『痛みについて話してください』と要求したわけじゃなかったが、私たち誰もがそれぞれの痛みを抱えて今日を生きていると思った(イ・ラン『話し足りなかった日』176頁)」と、著者は語る。身体的なものであれ、精神的なものであれ、「痛み」を負いながら生きつづけることは本当に辛い。「痛み」が強ければ強いほど、わたしたちの心はその「痛み」にフォーカスしすぎるあまり、勝手に自分は孤独だと思い込んでしまう。「わたしのこの苦しみなんて、どうせ誰にもわかってもらえはしまい」と。けれどもその「痛み」は、誰かと共有することで幾分楽になることもある。思い切って誰かに自分の「痛み」を告白するとき、あるいは、類似の「痛み」を抱える人の文章を読むとき、相手の中に深い共感を見出して安心できることがある。「あぁ、わたしだけじゃないんだ」と。

わたしは32歳。多分これから、イ・ランが経験した様々な「痛み」を経験することになるだろう。『話し足りなかった日』は、わたしにとっては、その時が訪れた時のための参考書のような本でもあった。この本は友人にプレゼントする予定なのだが、帰国後に自分用にもう1冊買おうと思う。

読書の後はいつもの通り朝食をとって、ヨガをして、夫に電話をして、仕事に取り掛かった。迷った末に、仕事に集中するために2杯目のコーヒーを入れた。今日の任務はチェコで収集すべき資料をリストアップすることだ。ブルノ・モラヴィア図書館に所蔵されている本はギリギリまで調査できるが、そうでない本は、他館からの貸し出しになる。現在はコロナ禍の影響で、図書館間貸し出しは無料なのだが(「プラハのドイツ語文学 (※)」を扱っているため、自分が必要としている本は、実はプラハ国立図書館に所蔵されていることの方が多い。だから、無料で貸し出しができるのは本当にありがたい!)、チェコ国内であっても本が届くのには2週間ほどかかるらしい。そのため、なるべく早く必要な文献をリストアップして、館外からの貸し出しが必要な本の書誌情報をレファレンスに送る必要がある。本当は国内にいる間にやっておきたかったのだけれど、途中までしかできなかった。だってうつ病患者だもん。

そういうわけで午前中は集中して仕事をおこなった。結構がんばった。12時前に脳がシャットダウンしそうになったので、作業を終えて薬を飲み、作り置きのスープとパンの残り(やはりシュマヴァ)で昼食をとった。このスープは、スーパーなどで、スープの出汁用に販売されている香味野菜や根菜類の詰め合わせを細かく刻んでオリーブオイルで炒め、トマト缶を入れて煮込んだもので、留学時代からよく作っていた。野菜を刻むのはちょっと面倒くさいが、美味しいし体にいい。

今日は日曜日。ブルノはプラハと違って信心深い人が多いので(逆にプラハの人々は無神論者が驚くほど多い。その信仰心は、日本の人々のそれとほぼ同じ程度だ)、お店もあらかた閉まっているだろうから、一日家で過ごすことにしようと思う。昨日Place Storeで絵葉書を大量に買ったので(ヘッダー写真参照)、友達に宛てて書こうと思う。それから、ソファかベッドに寝そべって、昨日買ったZINEにでも目を通そうかな。

そろそろ『翻訳文学紀行Ⅳ』の準備も始まる。こちらは、もし余裕があれば今日の昼下がりに、なければ明日の午後にでも取り掛かることにしよう。


※プラハのドイツ語文学:今日のチェコ共和国は、かつて中欧で繁栄を極めたオーストリア・ハプスブルク帝国の属国であり、第二次世界大戦終結以前は、多くのドイツ語話者が居住していた。チェコ語を母語とするチェコ系住民が主に農業や工場労働に従事していた一方で、プラハに居住するドイツ語話者のほとんどはいわゆるホワイトカラーに属していた。そしてその中には、かなりの割合でユダヤ系住民が含まれていた。19世紀末から20世紀初頭にかけて、フランツ・カフカ Franz Kafka やマックス・ブロート Max Brod、フランツ・ヴェルフェル Franz Werfel など、プラハに拠点を置く(多くの場合ユダヤ系の)ドイツ語作家が目覚ましい活躍を見せた。「プラハのドイツ語文学」という名称は、以上の文学的現象を総称するものとして理解される。

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