【追悼】大井冷光―井上江花のルポ5編『高岡新報』1921年

井上江花 1871-1927
『濠の藻草』1922年7月

大井冷光の恩師である井上江花は、形式的な文章をことのほか嫌う記者だった。かつて競合紙北陸タイムスの新社屋完成記念紙面に名士たちが祝辞を寄稿したのに、ひとり「我がタイムス観」という文章を寄せたことがあった。冷光の死に直面して、江花は翌日の紙面に短い追悼記事を書いた以外に追悼スタイルの文章は書いていない。その代わりにルポを書いた。「喪に之く旅」「死に暗示有り」「之れ戦死也」「友人を葬る」「紅海を渡る」という標題の5編である。「オホ井ノブカツキウシス」の電報を受けてから、上京して葬儀に参列し遺族会議が終わるまでの記録である。5編は自分が主筆をつとめる夕刊紙『高岡新報』の1面に掲載された。最初の「喪に之く旅」「死に暗示有り」は何とトップ記事だった。これは極めて異例なことであり、紙面の私物化という批判は免れないようにも思える。しかし江花は、児童文化運動の最前線にいた公人の死と位置づけて筆を執った。

記事は3月7日に葬儀が終わってすぐ東京で書かれたらしく、3日後の10日付けから始まっている。その後、江花の書いた冷光に関する記事はこの5編にとどまらず、その後、連載を含めて百数十編にも上ることになる。


「喪に之く旅」『高岡新報』大正10年3月10日1面

◇三月五日の夜十一時頃、私は尚起て居て或調べ物に精を出しつゝあった折柄、新聞社の野口留子居るすいの妻が「唯今電報が届きました」と言って、高岡新報社宛私への電報を渡した。実は今日私方へ訪問する筈になって居た或友人があったから、其の人より、謝りの挨拶であるかも知れぬと思ふた。然し其の友人は県内のツイ近くに居る者である而巳ならず、来訪すべき用事は特に電報を打つまでも延期を知らせてくる程の事柄で無かったので少しく変に考へられたもので、他に格別心当りのない所より、何気なく封を切ると発信人の名は「オホ井」とある。大井君ならば昨今三浦半島を旅行して居るので、その旅先から打ったものであらうとは、電文を読むまでの刹那の想像であったが、さてその電文には「オホ井ノブカツキウシス」即ち大井信勝急死すとあったので驚いた。「何うしたと云ふのだらう」「何うしたのでせうね」と傍に在る妻も諒解の出来ぬ顔付きであった。私は幾度ともなく夫れを繰返しながら、いろいろと異った意味に考へてみたけれども「大井信勝急死す」より外に意味の取りやうが無かった。依って発信局を見ると青山とあり、受付は午後の八時だ、結局冷光君が死んだのに相違無しと決定すると、何だか夢のやうで呆然ぼんやりとしてしまった。

井上江花と大井冷光(右) 
「大正2年の春4月東京にて写せる」『江花文集』第5巻(1914年3月) ※高岡市立図書館蔵

◇昨年の秋上京の折には深く私の病気を心配し、高田月嶺君と私の宿を訪ね、帰県のときは例に依り上野駅まで見送って呉れた。それ以後音信の取替されたことは十数回であらう。そのうちの半数は村井雨村君に関する用件と、私の病気見舞などであった。最近に寄せたのは二月二十七日発の普通端書で「大分ご無沙汰致しました、お申越の鏡の書物やと、昨日の午後古本屋あさりをしましたが、生憎見つかりません、それで更に手を替へて探し出させる方法を取りましたから、お待ち遠では有りませうが、もう三四日お待ち下さいませんか」とある。右は鏡に関する或古書を探し出さんことを私から依頼してやった為で、親切な同君は二十六日の午後古本屋を廻って呉れたものと見える。そして右の記事のあとに一段文字を下げ「野生は明日から、武田巌作氏の招きで三浦半島の三浦郡へ一週間しゃべりに行きます、一可氏との対面は、富山土器発掘以来のことで御座います」とあった。一可氏とは武田君の俳号であるがこの人は往年富山県の警察部に保安課長を勤めた居たところ、冷光及び私などの知り合ひ、その頃私は石器時代の遺物を掘まはって居た為、婦負郡の北代あたりへ鍬を担ぎながら冷光君などを伴れて幾度も出掛けて行った。武田君も或は一回同行されたかも知れぬ。武田君は今三浦郡長になって居て多分郡教育会か何かの名義で冷光君を招聘したのであらう。依って半島一週間の旅行を私へ報じてきたのだ。一体冷光君は旅行前に大抵それを報じて来るのみならず、旅行中にも必ず私へ便りをする事にして居る。モウそろそろ其の旅信の届く時分だと思って居たら、今度は旅行通信では無くて意外にも意外、青天の霹靂ともいふべき一大旅信が来た。

◇冷光君が死去したと決まってみれば、私の思ひは直に遺されたる其大家族の上に馳せざるを得なかった。相当の収入は有っても、彼の大家族ではとても経済的余裕の有るべき筈は無い。さすれば目前に彼の家族を何うするとの重大な問題が横たはって居る。冷光君には殆ど親戚がない。僅に縁戚らしい家はあっても夫れは斯かる相談に於いて全然無価値の者だ。私は兎も角も此の喪に参会せなければならぬと思ふて社の使を還へし、妻子をねむりにつかせたけれど、私は終宵眠ることができなかった。つまり遙かに友人の通夜をしたわけだ。翌六日新聞社へ出勤して、自分の仕事に一段落をつけ、冷光君の長男光雄君へ宛て「コンヤタツ」の電報を打ち、同夜高岡を出た。家を出る前に一枚の絵葉書が配達せられたるを見ると、夫れは冷光君から出したものであった。私は奇異の感に打たれながら夫れを携へた。同じ列車には大門の正力君が、警視庁にある令弟の病気見舞に上京されるのと打合ふた。見舞に行く人やら、喪に之く者やら、春はまだ早く陰気な事である。(東京より)
※正力君は正力松太郎(1885-1969)。

「死に暗示有り」『高岡新報』大正10年3月11日1面

◇冷光君の喪に会せんとして居る私の許へ、その本尊の冷光君の書いた郵便が来る、しかも其の文字は生き生きとして居るのではないか。私は何うしても同君が死んだとは思はれない。それは「逗子海岸浪子不動の景」と題してある逗子の絵葉書で「三浦半島を横須賀を振り出しに、グルリとしゃべりまはりて候、今日で十二回目の出講前に、逗子にて冷光生」とありて
 浪の音落椿芝居心の夜道哉
の一句を書きつけ、尚「此の郡長は武田一可氏に候」とて武田君が三浦郡長をして居る事を、私が知るまいと思ひて申添へてある。此の絵葉書の消印は消滅してゐるけれども五日に出したものにて、即ち「急死」の少しく前に書いたものである。私は汽車の中で此の最後のハガキを読み返した。恐らくは冷光君の書いた絶筆はこのハガキであらう。然るにその絶筆に「浪の音落椿芝居心の夜道哉」の一句を吐いたとは、実に不可思議千万だ。ナゼかと云ふに、夫れには冷光君自身の眼前に迫り来りつつある運命を暗示せられてあるばかりではなくあたも其の運命を予覚して作った辞世の句のやうにも思はれるからである。イヤ勿論死の運命を明かに自覚して居るわけは無いだらう。「浪の音落椿」は例の蘆花作悲劇の主人公浪子の事を連想したもので、芝居心と云ふのは不如帰ほととぎす劇から来たものであるに相違ない。冷光君は逗子へ来るのに夜道をして来たのか、或は夜に入って其処らへ散歩にでも出たのか。とも角浜辺の浪子不動あたりを歩いてゐると、波の音が鞺鞳とうとうと物凄く聴える。空は曇って雲の切れ間に小さな星が一つ二つ心細げに光って居る。夜寒は身にヒシヒシと沁む。アヽ寂しい、恐ろしい、物凄い景色だ、と思ふところへ道ばたへボタリと何か落ちるものがあるから、何だらうと思ふたら、それは椿の花が散ったのであった。恁麼こんなにして夜道をして居ると何だか自身が芝居の中の一人物でゝもあるやうな心地がする、と云ふので有らう。アヽ何ぞ図らむ。その脆く地に墮ちたる美しい椿の花は、冷光君自身の運命を示すものであらんとは。芝居心よ、芝居心よ、何とした大きな芝居ぞや「日本現代のお伽作家大井冷光の死」と云ふ幕が開かれんとして居る、その開幕前の光景が之れなのだ。椿の花は、まだまだ散りさうに見えないのに突然として地に落ちるものだ。それは浪子のやうに長い肺病の結果で死ぬ者には相応ふさわしからねども、君のやうに若くて生き生きとして居て盛んに枝頭を飾って居たものの急に死するには、此上もない象徴だ。大井冷光此の如く落つ。世間は且つ驚き、且つ嘆き、等しく讃美と愛惜の声を放つ。それは恰も轟々たる浪の音が、この静かにホロリと落ちた椿の花を取巻いて響くやうなものだ。世間が驚き叫んで居るうちに、君は最早空骸なきがらとなって横たはって居るとは芝居心としては余りに大きく余りに崇巌である。「浪の音落椿芝居心の夜道哉」。之れが死の暗示でなくて何であらう。辞世でなくて何であらう。思へば五日に私は卒然として歯が痛み出した。翌日東病院に行って治療を受けたが、格別のことはないので、それ程激しく痛み出すべき筈のないものであった。暗示と云へば之れも或は冷光君の死んだ時の感想であるかも知れぬ。私う云ふ神秘的の思ひに取乱れて汽車中の一夜をウツラウツラとして過ごした(東京より)
※蘆花は徳富蘆花(1868-1927)。

「之れ戦死也」高岡新報』大正10年3月12日1面

◇軽井沢の駅で、車中から六日夕刊七日朝刊の時事新報を買取ってみると、夕刊には「冷光大井信勝儀三月五日午後二時急病にて死去仕り候」云々の黒枠広告が出て居るばかりなれども、朝刊には「本社少年少女記者大井冷光氏死す」との標題のもとに死去の顛末が記されてあったので、それでは死んだに相違無いのかと合点がついた。此頃は奇態な悪戯が流行って、生きて居る者の死去を通知するとの話を知って居るから「大井信勝急死す」との電報も、或はその手で無いにも限らぬ。東京へ着いたら、先づ第一に時事新報社へ電話を掛け「大井君が死んだと云ふ話だが、事実は何うか」と尋ねてみなければならぬ。「滅相な、左様な事は無い、現に大井君は社内にピンピンして居るから、唯今電話口に出るやうに知らせる」とでも言って呉れるなら、之れほど目出度い事はない、私は斯うした取留めのない想像をさへ描いてみたものだったが、新聞を見ると、此の万一の頼みの綱はプツリと切れてしまった。

◇新聞記事に依れば、同君は五日逗子小学校に於て、教育会主催の学芸会に臨み、午後一時演壇に起ち、例の得意のお伽噺「ホーちゃん」を講演中、同二時五分頃に至り、談佳境に入り子供を抱き上ぐる身振りをする途端、心臓麻痺を起して卒倒し、それきりになったのだとある。このホーちゃんのはなしは、昨秋私が丸の内有楽座で聴いた「血染の国旗」と題するものにてその身振りも一度は私の見たものだ。私は此の記事を読むと共に、て立派な死にざまであったと思ふた。お伽講演家が、その講演中に卒然として倒れてしまったのは、恰も武士が戦場に於て花々しく討死にを遂げたるも同じである。「之れは確に戦死だ」と私は心の中で叫ばざるを得なかった。それにしても不思議なるは二時過ぎと云へば、夫れが私の歯痛を起したと殆で同時刻である事だ。冷光君がバタッと倒れた刹那の強い神経の無線電信が私の歯へ感応したものとより他思はれぬ。

◇私は東京の宿へ着くと、手水を使って、持参の羽織袴を着し、青山に向った。然るに折のわるいときはわるいもので、私の宿では昨年中学校在学中の大切な一人息子を死なし、引きつづいて今年十六歳の一人娘が病気の為、千葉の病院に在院して居たが昨秋から熱海へ転じ、熱海に於て昨今愈危篤の由にて、家族は残らず其の方へ赴き、あとは女中ばかりであるから客の待遇も敏速には運ばぬ。為に多少の時間も後れたるさへあるに、上野へ出て青山行きの電車を待つと品川行、日本橋行ばかりで青山行が来ない、十幾台と云ふものを空しく見送って、至方しかたがないから品川行に乗って乗替切符を取った。それこれで時間が後れ、青山六丁目で降りると、そこにフロックコート姿の藤井黒龍君が立って居て既に告別式が始まって居るから早く往って下さいと言った。藤井君は之れから四谷寺町の葬儀場へ先発として出掛けやうとして居たところだった。私は乃ち急いで大井宅へ入ると、広くもない家は人でギッシリになってゐた。高田月嶺君が私を見ると飛び出して迎へに出て、棺を正面に洋服和服の礼装をした男女の間を、未亡人文子さんや子供等の前に連れて往って呉れた。文子さんは私を見ると泣き出して物も言へない。私は子供等の頭を撫でた。そして霊前に一拝し飾ってある写真を見たときに、私の目から大粒の涙が瀧の如くに流れ押ふれば抑ふるほど止め度が無いので、私は痩我慢を棄てた。そして心のうちに「大井君、君の死は立派な戦死だぞ」と言ったのである。(東京より)

「友人を葬る」『高岡新報』大正10年3月13日1面

◇引きも切らぬ弔客の中には、飛行将軍の長岡外史さんの顔なども目に付いた。将軍の話相手になってゐた久留島さんは、長岡さんが去ると私の方に向いていろいろの談を始めた。久留島さんは盛岡地方へ講演に出たゐたところ電報が届いたから、雪の山道を急行して帰ったのであるが、多分流行感冒にやられたのだらうと考へたとの事である。だんだん聞いてみると、冷光君は三浦半島のお伽旅行の終りに、逗子で開かれた学校児童等の対話の会に臨み、興に乗じて講壇に立ち「血染の国旗」を一時間ばかり演じ、談話の終りに近づき、日本軍隊が露軍の挟撃を受け苦戦の折柄、日本贔屓びいきの支那少年が、日の丸の国旗を樹上に振って日軍の勝利を祈れる為、敵は日軍の応援隊ありと思ふて退却するとき、少年は流弾のため地下に落ちて負傷した。それを発見せし我が将校は感慨のあまり、急いで少年を抱き起すところで、演者は両手を拡げ将校の身振りをしたまま前に倒れ頭を壇下に両脚を壇上にしてさかさまになったまま冷たくなったといふ事だ。

◇冷光君は心臓が良くなかったところへ、半島旅行一週間に十一回の講演を繰返して疲労した揚句、盛大なる学芸会に臨んで、自らも大いなる感激を以て謝意の談話を試みたことが、此の悲劇を生ましめたのだ。出発前に久留島婦人が「大井さんは近頃余りに働き過ぎるぢゃ有りませんか、今度は家に居て下さっては如何いかがです」と注意せしに「働かねばなりませんよ、九人もの家族を持って居ますからな」と勢ひよく別れたのだとある。故に私人生活の側より言はば九人の家族生活の為に犠牲になったやうなものだが、然し之れを社会の方面から見るときは、君が公人として従ふところの児童教育の職分に其の身を献じてしまったのだ。

◇葬儀屋が金ピカの自動葬車を持って迎へに来たので、棺の蓋を釘付けにする前に、藤野君は、冷光君の死顔を私に見せて呉れた。顔を覆った帽子を取ると、生前の通りの優しい大井君が静かに眠って居て、棺のうちには最近の遺愛品なるステッキなどを入れてあった。十二歳の長女喜美代さんは、此時私の横に来て更に最後に父の顔を見てシクシクと泣き出すのであった。棺が柩車へ納まると、私共を載せた自動車を後に随へて、東京市中を驀地まっしぐらに飛び忽ちにして四谷区の西念寺に達した。途中細い小路を通過するときには、冷光君の同窓の友で警視庁警部をして居る中川滋治君が一言口を利きさへすれば、如何なる面倒の制限もサラリと埒が明く。寺は槍の半蔵の菩提寺で、少年少女の例会場として故人の生前出入せしところだと久留島さんが私に告げた。会葬者のうちには時事の福沢社長、巌谷小波以下、諸先輩及交友知人等で、村井雨村君の顔も見えた。

◇少年少女の松美佐雄君が涙ながら哀悼演説をしたあとで、巌谷さんの弔辞演説、それから郷里友人を代表する私にも何か述べよとの事に付私も起った。弔辞の朗読は武田三浦郡長のもの、同郡教育会のもの、逗子小学校のものなどで、逗子校の弔辞を読んだのは、卒倒せし故人を抱き起した教員であったらしい。何れも皆形式的の文句や文章でなく、お伽作家の葬儀に相応しい情味ゆたかのものばかりであった事を私は喜ばしく思ふた。散会のときに久留島さんと私とが親戚を代表して参会者へ挨拶し、私共は代々木の裏手に当る千駄谷の火葬場まで柩車の後につき随ひ、火葬の手続きを終って引還へし、大井宅に於て夜遅くまで大井家今後処置等に関する相談会を開いたが、此協議会は翌日も亦継続され、久留島、藤野、柴谷、高田、藤井の諸君が之れにあたった。
※藤野は藤野至人。

「紅海を渡る」『高岡新報』大正10年3月14日1面

◇モーゼの率ひたイスラエル人の群は突然に干潟となれる紅海を渡った。誰しも其の生涯のうちに於て一度位は生活の上に又は精神上に進退きわまることの有るものだ。前後左右囲らずに絶壁を以てし、之を攀づることもきなければ打抜くこともできず、最早八方塞がりであると思ふときであっても、いよいよ夫れへ打当って見れば、意外にもそこに小さな道を発見するか、然らざれば俄かに其の絶壁が左右に開かれて通過を許すことがある。斯うした人生の奇蹟は大井冷光君の遺族の上にも現はれた。今回の書信に於て一切の議論は抜きにしてある。之れも亦事実を書き記すばかりだ。

◇冷光君には遺産が無かった。夫人の同胞二人も合せて九人の家族は、主人の急死に遭ふて途方に暮れたのは無理からぬ事であった。夫人の同胞二名は共に青年であるから、何うにか自活はできるとしても、其の他七人は明日から如何にして生計を維持すべきかとの問題に出会したとき、席上へ一人の僧侶が現はれた。藤井黒龍君の如きは「彼の怪僧何者ぞや」と言って居たが、此僧侶は冷光君の従弟いとこにして、僧の父即ち冷光君の為の叔父は往年幼き孤児なる冷光君の身に着いた財産を指に染めたる一人である。そして叔父の子は親を離れて流浪し消息不明となって居たところ、いつの間にか千葉県下某地に一寺の住職となって居るのであった。それが此の危急存亡の場合に現はれ来って、大井家遺族全部を引取り生活を保護すると言った。冷光君の先輩及び友人等は呆気に取られ一時は其の僧侶に信用を置き得なかったけれども、種々談話を交換したる後、大井遺族の快よき承諾の下に、双互諒解を得て遺族は其の住職が寺に連れて行くことになった。但し長男長女だけは久留島家に於て教育を継続し、彼等今後の身上に関しては友人等が協議に参与することに約束が結ばれ、斯くて遺族処置の会議は、葬儀の翌日を以て迅速に結了した。若うして未亡人となった大井文子さんと幼き子等と祖母とは、近きうちに千葉県印旛郡旭村の小名木と称する田舎に落付き、そこに落ち椿の樹下に寂しく立てる冷光君の肖像油絵を掲げて寂しい悲しい生活を営むであらう。(気を付けて見ると不思議にも同君の書斎にそうした油絵がかけてあった) 然しながら此の奇蹟に依って少くとも大井家の人々は易々と生活問題を解決することができた。即ち彼等は紅海を渡ったのである。仏教の所謂因果応報なるものが之れである。天意なくば一羽の雀も地に堕ちぬと云ふのも之れである。遺族協議会の終ったとき、村井雨村君が私を呼びに来たから、私は同君と共に田端に往った。私は村井君の為、創作の資料になりはせぬかと思ふたから、彼の僧侶の一件を告げると、村井君は先年高岡に於て妹さんの死去の際にもそれに類似せる出来事があって、或者の突然の出現により窮境を救はれたりと語り、人生には小説よりも奇なる方則のある事を深く深く感じた。宗教家は之れを或者の摂理と称へる。方則といふも摂理と云ふも畢竟同一現象に対する見方の相違にすぎぬ。(東京より)

「横町の寓居に於ける書斎」『江花文集』第5巻(1914年3月) ※高岡市立図書館蔵

【編集者注】「之れ戦死也」は、告別の場面がよみがえるようで読む人の心を打つ。残された家族9人とは、31歳の妻文と5人の子、そして伯母(文の母)57歳、伯母の息子2人(20歳代)であるとみられる。5人の子どもは、長男14歳、次女10歳、次男7歳、三男4歳、そして三女は生後49日である。文中に長女とあるのは次女の間違い。長男と次女は富山で生まれていて、長男の光雄という名は明治39年、入営中の冷光に頼まれて、江花が名付けたものだ。

明治38年から明治43年にかけて、江花と冷光は家族ぐるみの付き合いがあった。冷光が1年志願兵を終え金沢の兵営から帰るとき、伯母は新しい借家探しを江花に相談していた。江花と妻の操が家を空けたとき、冷光と文が留守番をしたこともあった。江花は、冷光の家族が皆懸命に生きてきた時代を知っているだけに、文・伯母・光雄の顔を見ると涙を抑えられなかったのである。

それにしても意外なのは、井上江花が冷光の死を戦死だと述べ、巌谷もまた4日後の、『東京朝日新聞』の投書欄「鉄箒」で同じような趣旨の文章を書いたことである。2人の恩師の思いは意外なほど通じるものがある。歴史学的な観点から口碑に関心があるがお伽趣味はないという井上江花。冷光から神様のように崇められたお伽の大家巌谷小波。2人は冷光の仲立ちで一度だけ会ったことがあった。

巌谷は「鉄箒」で「我等は此鳩の家の陰に集うて永く其余影を称ふべきである」と書いた。その呼びかけに共鳴し、呼応するかのように、江花は『高岡新報』に「酉留奈記」「冷光余影」という2つの連載を1年半近くも続け、冷光の日記や作品を活字として後世に残した。(了)

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