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吉田博と丸山晩霞「飛騨の旅」再論2023

丸山晩霞の「飛騨の旅」を深読みしてみました。原文は丸山晩霞_飛騨の旅(日本アルプス写生旅行)1898年をぜひ読んでみてください。


(1)まえがき

「飛騨の旅」に関する最新の研究報告と展覧会図録を、最近ようやく手にして読んだ。

  • 図録「郷愁の画家 丸山晩霞 -師友とその時代」(2022年発行)

  • 林誠「吉田博《写生帖No.17》「日本アルプス写生旅行」再考」『長野県立歴史館研究紀要』29号(2023年3月31日発行)

「丸山晩霞没後80年展」が開かれたのは2022年1月から2月にかけてのことだから、1年半遅れで批評というのはいささか間抜けた話である。しかし「飛騨の旅」について持論を述べてきた手前、「再考」に対する「再論」を述べておくのがいささかの礼儀であろうから、筆を執ることをお許しいただきたい。

林誠氏の「再考」というのは同じ研究紀要に8年前に掲載された自身の論文の見直すという意味である。

  • 林誠「丸山晩霞の初期素描について 「日本アルプス写生旅行」のスケッチを中心に」『長野県立歴史館研究紀要』21号(2015年3月31日発行)

その最初の論文を読んで、当ブログが評したのは2017年6月だった。

その後、いろいろ調べて知ったが、林氏は20年前に話題になった「もうひとつの明治美術展」で年譜を編集するなど、基礎研究をなさっていらっしゃる専門家であると知った。

人文科学の基礎研究とは尊いものだ。気象データをベースにして「飛騨の旅」が、従来言われていた明治29年ではなく明治31年であると論じた緻密な研究に、当初はただ敬服するばかりだった。が、それだけでは物事は先に進まない。今回は疑問点を提示し、論点を明らかにしていこう。

(2)判明した5つの事実

「飛騨の旅」とは、明治31年(1898年)に画家の丸山晩霞31歳と吉田博21歳が31日間にわたって行った写生旅行である。「日本アルプス写生旅行」とも言われ、両者とも山岳画家としての原点ではないかとみられてきた。2016年の吉田博生誕140年展では、『山と水の画家 吉田博』(2009年)をもとにやや行き過ぎたストーリーがPRとして語られ、当ブログはその「ウケ狙い」を厳しく批判した。(吉田博と丸山晩霞と「飛騨の旅」2017年)

「飛騨の旅」は、その8年後、丸山晩霞が雑誌『みづゑ』に寄稿した同名の回想記を元に論じられてきた。回想記は俳句漫遊記のような文章で、具体的な日時が全く記されておらず、さまざまな推測を生んできた。

一方、吉田博生誕140年展の際、吉田博の写生帖No.17に関連の記述が残されていることが初めて分かり、照合調査が待たれていた。その調査結果がまさに林誠氏の「再考」なのである。

「再考」の結論はあくまでも慎重だ。それをそのまま紹介してみても、どうも論議は深まらない。僭越だが5点に整理しておこう。

  1. 明治31年6月18日から7月18日までの31日間とほぼ確定。

  2. 梓川渓谷のルートは稲核村すぎから右に分岐し大野川村に到着と判明。

  3. 平湯滞在は12泊13日がほぼ確定。

  4. ルート最北端は富山県蟹寺とほぼ確定。

  5. 野麦峠手前の宿泊地が中之宿村なかのしゅくむらと判明。

吉田博のスケッチ帖との照合調査で、このほか、宿泊先の家の名とかもいくつか分かった。

(3)漫遊記とポンチを読む

このあと細かく論じていくが、その前に、この「飛騨の旅」という文章について述べておきたい。これは漫遊記であって、記録性の高いドキュメンタリーではない。丸山晩霞が、ウケを狙い、「シラミにまみれた」自虐ネタを交えて、面白おかしく脚色した回想記である。

船津町での騒動をわざわざポンチ絵にして掲載しているのをみてもそれはよく分かる。ポンチというのは今で言う「漫画」である。

「船津町旅舎大坂屋楼上の光景」『みづゑ』第14号1906年

だから、真に受けて真面目に読み解いてしまうと、過大評価を招きかねない。

一方、吉田博の写生帖No.17に書かれた文章は、限りなく備忘録であり、その日からあまり間を置かず書かれたものとみられる。8年後に記した晩霞の回想記よりも比較的正確であるとみていい。

吉田博は昭和17年(1942年)、晩霞の追悼文集で、44年前の旅を振り返っている。少々長いが、重要なので関連部分を引用しておこう。

この祢津から西方に飛騨との国境の山々が実に美しく見えるのです。この当時はこんな名前はなかったんですが、これが今の日本アルプスなのです。私はこの雄姿に打たれ、急に登ってみたくなり同君に話すと、何にせよ山男と言われるほどの山好きのことですから早速意気投合、すぐに登山決行ということになったのです。まずこれまではよかったのですが、私も同君も地理的研究は皆無なものですから、これが面白い結果になったのです。私は半ば同君を信頼し気安さを感じていましたが、何しろ同君の無鉄砲さのことですから『何でも西の方に向かって行けば間違いはない』という寸法だったので、早速身支度よろしく島々から白骨温泉を経由、阿呆峠を越し、飛騨の高山に出で、それから山に入り込んだものです。行けども行けどもそれらしい山に出合えず、上りつ下りつついに元の島々の方に出てしまったのです。無論上高地などというところのあることすら知らなかったのです。やれやれというところで振り返って見れば依然として連峰は雄姿をそのまま背後に聳えているというわけなのです。阿呆峠を越して阿呆を食ったという、落語のような諧謔味がありますね。

吉田博「青年時代の晩霞君」『丸山晩霞』1942年

「阿呆峠を越して阿呆を食った」という表現だけとってみても、笑い話になってしまう雰囲気の旅であったことが分かろう。

(4)「アルプス」は後付け

ではなぜ「日本アルプス写生旅行」と呼ぶのか。

「飛騨の旅」という文章には「アルプス」という言葉は出てこない。その旅で晩霞がスケッチした素描が20点確認されていて、そのうち6点に「日本アルプス写生内」とか「日本アルプス写生旅行内」とか小さな字で添え書きがある。これを根拠に「日本アルプス写生旅行」という別名が通用しているのである。

「日本アルプス」という言葉は、ウォルター・ウエストンが『Mountaineering and Exploration in the Japanese Alps』(明治29年・後の邦題「日本アルプスの登山と探検」)を著して広まったが、当初は英語である。「アルプス」が日本語として流通しだしたのは、山岳会が結成され、小島烏水が初代会長となった明治38年頃である。

小島烏水の著書『山水無尽蔵』(明治39年7月)に、晩霞が描いた口絵2枚がカラー印刷で残っている。「飛騨の旅」『みづゑ』を書いたのと同じころであり、小島烏水との出会いが「飛騨の旅」を書くきっかけなのかもしれない。『山水無尽蔵』には「槍ヶ岳探検記」(明治35年の山旅)が収録されている。そのとき烏水がたどったルートは、松本から白骨温泉まで梓川沿いを行くもので、丸山晩霞・吉田博のルートとよく似ている。つまり、烏水より4年早く晩霞・博は梓川渓谷を旅していたのだ。

「日本アルプス写生内」という添え書きも、烏水の交流の頃か、それより後に書き足したものであろう。例えば、《白骨附近森林》という署名のある素描には、《森林》という署名もある。ひとつの絵に《森林》と2回書く必要ないので、《白骨附近森林》を後で追加したのでないか。また《平湯嶺森林》という署名のある素描は、その署名には「檜峠森林」といったん書いてそれを消して《平湯嶺森林》と書き直した形跡が残っている。後になって署名を書き足す際、迷いが生じたのかもしれない。

「日本アルプス写生内」という添え書きがもし明治31年当時のものなら大変なことである。晩霞が、山岳会の面々に先じて「アルプス」を意識してことになるからだ。それはありえない。「日本アルプス写生旅行」という表現は、誤解を生むのでできるなら使わないほうがいい。「日本アルプスの山中を旅したのは事実だから問題ない」という見方をする人もいるが、安房峠を越えたくらいの旅を「日本アルプス写生旅行」と言うのはあまりに大袈裟だ。森林限界を越えた雲上の山歩きからはほど遠い。この旅から山岳画家の出発点を見いだすのは難しいと言わねばならない。

(5)誤記・誤植に注意

本論に入る前に、「飛騨の旅」『みづゑ』の誤記・誤述に触れておこう。

東京文化財研究所は2017年12月、所蔵資料アーカイブス「みづゑの世界」をWeb公開した。明治大正期の雑誌を、誌面画像PDFとそこから取り出したテキストデータ形式で紹介している。自在な検索が可能になり、研究者にとってはありがたい資料集だ。ただ、テキストデータは、機械的な変換によると思われる誤字が散見される。また改行が少なく、データ化されても読みづらいので、当ブログでは誤字を修正し、読みやすさ優先で公開している。

●「みづゑの世界」注意すべき誤字

×疲勢 ○疲勞(疲労)
×自骨 ○白骨
×牛氣 ○平気
×柳  ○聊
×見る明 ○見る眼
×吉ヶ原 ○青ヶ原
×蓮 ○運
×菌 ○茵
×茜 ○茵
×野菱嶺 ○野麦嶺(野麦峠)
×大つた ○太つた
×窩生 ○寫生(写生)
×猶する ○発する
×圍続 ○圍繞(囲繞)
×肌仝体 ○肌全体
×霊きて ○盡きて(尽きて)
×書學 ○畫學(画学)

それから誤認識に対する注釈がない。たとえば「岩井観音堂」は、現代では「岩谷堂観音」にあたる。明治中期にはそう呼ばれていたのかもしれないが、このあたりは郷土史家の検証を待つ必要がある。

最も困った問題は、「右」「左」の誤植である。後述するが、ルート推定にあたってこれは避けて通ることはできない問題である。

  • 前編第4章?左方、鍋冠山・大明神山の諸渓谷より発する川 ※右の間違いか

  • 前編第5章?左すれば白骨温泉場を経て、平湯嶺を越え飛騨に入る ※右の間違いか

  • 前編第5章?われら左折して行く ※右の間違いか

(6)梓川渓谷のルート推定 稲核すぎの分岐点

林誠氏は、飛騨の旅のルート全体を地図に示している。2015年「初版」と比べて「改訂版」となり、平湯嶺の誤認を認めて安房峠越えを推定している。これについては既に論じたのでそれを参照していただきたい。なお「改訂版」には「×笹ヶ岳 ○笠ヶ岳」という誤植が訂正されていない。

当ブログが推定するルート(赤線)
林誠氏の推定ルート。奈川渡から松竹を経由し大野川村
への道筋を想定するが、これは旧道(鎌倉街道)であり、
丸山晩霞・吉田博の進んだ道ではない。
「日本アルプス写生旅行行程略図」(改訂版)
図録「郷愁の画家 丸山晩霞 -師友とその時代」(2022年発行)

今回取り上げるのは、島々~大野川間の梓川渓谷ルート推定である。丸山晩霞の記述を読んだだけでは分かりにくかったのだが、吉田博の写生帖No.17の備忘録と照合することで概ね推定できるようになった。

この梓川渓谷は1960年代後半、奈川渡ながわど水殿みどの稲核いねこきの3ダムの完成によって、景観が大きく変貌した。明治時代から大正時代ぐらいまではまだまだ秘境で、巨岩が散在するV字谷や、両岸にそそり立つ岩壁などがあった。上高地への車道が1927年に開通して以降、次第に単なる通過点となっていく。3ダムができる前の1950-60年代の観光ブームでも、上高地と比べて注目度が相対的に低かった。

「ブルー・ガイドブックス14」榑沼光長著『上高地』(1961年)

そうした中で、1961年の旅行書、「ブルー・ガイドブックス14」榑沼くれぬま光長著『上高地』(実業之日本社発行)は、ダム完成以前の梓川渓谷を振り返ることができる貴重書である。榑沼氏は1930年生まれの山岳観光写真家で『信州の旅情』という著書もある。

榑沼氏が記した地名を下流側から記すと以下の通りである。

鵬雲崎~五領沢~天狗岩~屏風岩~奈川渡~小日向こひなた~がんくら~前川渡~沢渡

屏風岩は今の地図にも奈川渡付近に記載がある。天狗岩については不詳であり、先述の榑沼氏によれば五領沢のやや西と推測されるが、大白川と梓川の合流付近と記す書(『北アルプス乗鞍物語』)もある。

奈川渡~右岸~角姫橋~左岸~幾千代橋~彦市窪~玉虹滝~文治郎隧道~親子滝~蝙蝠岩~前川渡

また『旭の友』7巻8号(1953年・長野県警察本部警務部教養課編)に記された地名には、屏風岩と親子滝の間に「雷岩」「百軒長屋」がある。

丸山晩霞《島々村端より対岸に渡る橋》
1898年 28.7×47.5 丸山晩霞記念館蔵

さて、明治31年に時計を戻して、丸山晩霞と吉田博による飛騨の旅である。明治31年6月21日火曜日、島々村を出発して、雑炊橋ぞうすいばしを渡った。この橋を写した晩霞の素描が2枚ある。刎橋であったようだ。橋梁土木史という観点で、ハミルトン(Heber J. Hamilton)の写真(1893年か・ウェストンに同行した写真家)と並んで重要な資料になろう。

雑炊橋 (ZOSUI-BASHI, A BRIDGE AT HASHIBA)H.J. Hamilton, phot.
Mountaineering and exploration in the Japanese Alps

雑炊橋を渡ると橋場という集落で、2人はそこから稲核という集落まで梓川右岸を進んだ。橋場が標高約740メートル、稲核が約820mメートルで、約4キロの道のりとされる。明治36年に馬車道が整備されたというから、2人が通った5年前は、道はまだまだ狭かったものとみられる。

問題はこの後のルートである。晩霞はこう書く。

ここを過ぎて道また二つに分かる。左すれば奈川谷を経、野麦嶺を越えて飛騨に入る。左すれば白骨温泉場を経て、平湯嶺を越え飛騨に入るのである。われら左折して行くことに決した。われらは今、花崗岩の断崖千尺の頂に立っているのである。下瞰すれば脚下の深谷白玉を散じ、清翠の間を激怒奔流する梓川を見るこの壮観に筆を走らせ、道は山の中腹より傾斜に迂曲しつつ、次第に下りて河畔に出づ。流れに沿うて怪岩奇石の累々たる嶮道をたどれば、道きわまりて絶壁となり、これにトンネルを穿つ。そこを出づれば棧道をもって断崖を渡る。

(丸山晩霞「飛騨の旅」前編第5章『みづゑ』第14号1906年)

吉田博はこう書く。

稲核村より道は高所にあり。谷は千仞の下にあり。道を違えて行くこと五六丁。後戻り下道を行くうち、ひとつ橋に会う。渡るも道なし。ここより上流、奇岩奔流、桟道壮絶の所なり。

(『吉田博写生帖No.17』 読句点を付し、かな交じり表記に改めた)

2人は、稲核村の西にあった分岐点で、いったん左を選び500メートルほど進んでから間違えたと気付いた。分岐点までいったん戻り、下って行く右の道を進んだ。そして梓川河畔に出て橋を渡った。そこから先は道らしい道のないところで桟道が架けられてあった。2人の記述を総合すると、梓川右岸をしばらく進んで間違いに気付き、梓川河畔へと降りて行き、左岸に渡ったことになろう。

林誠氏の地図では、右岸をそのまま進み、右岸側の支谷大白川を渡り、奈川の谷に入って松竹集落の手前で右折し、祠峠を越えて大野川にたどり着くという模式図になっているが、これはどうも疑わしい。

「飛騨の旅」の後半、帰路の記述に注目である。

道は梓川の断崖を横切り、大白川を渡り、最初分かれて右したる、稲核村に至りて会した。それよりは旧識ある道を、再び歩すことになった。

(丸山晩霞「飛騨の旅」後編第7章『みづゑ』第14号1906年)

十三日入山を経て稲核村の前にて新道に出で一度来りし道を矢の如く行く。

(『吉田博写生帖No.17』 読句点を付し、かな交じり表記に改めた)

吉田博がメモした13日というのは間違いでこの日は7月14日が正しい。帰り道の2人は松竹村を出発し、入山にゅうやま村を通って、大白川を渡り、稲核村の手前で、例の分岐点にたどり着いた。

明治時代中期、松竹集落に近い角ヶ平(970m)から祠峠(1325m)を経て大野川村(1200m)に向かう鎌倉街道がまだ利用されていたとみられる。あの小島烏水が明治35年に槍ヶ岳に向かう際に通った。しかしその4年前、丸山晩霞と吉田博が通ったのは梓川沿いの「新道」なのである。

(7)鵬雲崎はどう見えたか

丸山晩霞と吉田博が明治31年に旅した梓川渓谷ルート。稲核から奈川渡までは直線距離で約4.5kmだ。稲核村すぎの分岐点とはどこか、そしてどこに梓川を渡る橋があったのかである。2通りの推論ができる。

一つは、稲核集落を出てすぐ、右岸宮ノ沢を渡るあたり(標高830m)か右岸安田沢を渡るあたり(標高850m)か右岸氷沢右岸(標高850m)に分岐点があり、梓川本流と左岸支谷栃沢の合流点下流付近、藤橋があったとされる場所で梓川を渡ったという推論である。

もう一つの推論は、右岸宮ノ沢・安田沢・氷沢・五領沢を過ぎ、右岸小白川付近(標高930m)に分岐点があり、奈川渡(900m)の手前で梓川を渡ったという推論である。

左側の下図は国土地理院空中写真閲覧サービスによる

2つの推論の相違点は、梓川を渡った2人がおそらく川筋に沿ってさかのぼる時、どんな風景を見たかによる。

1960年ごろの親子滝(左)と鵬雲崎
「ブルー・ガイドブックス14」榑沼光長著『上高地』(1961年)

いまの水殿ダムのある付近は、梓川本流と水殿川の合流点にあたる。この合流点より先の梓川渓谷は、ダム完成以前、素晴らしい景観であったらしい。特に「鵬雲崎」は、川面から約200メートルもそそり立つ断崖で、景勝地だった。

丸山晩霞《大野川》29.5×47.5 丸山晩霞記念館蔵
丸山晩霞《日本アルプス写生内 大野川附近梓川絶壁》 29.0×57.0 丸山晩霞記念館蔵
吉田博《大野川村途上》 個人藏

1つめの推論であれば、この鵬雲崎や屏風岩を2人は見た可能性が高い。晩霞が残した「大野川附近」の素描には、川原に聳えたつように尖峰が描かれている。もしかしたらこれが鵬雲崎か天狗岩か。なお、鵬雲崎は、長野県史跡名勝天然記念物調査が大正時代後期に行われた際に、命名されたものとみられる。鵬雲崎は「大野川附近」でないという見方もあるだろうが、稲核からの「大野川道」ととらえれば可能性はないわけではない。

2つめの推論だと、「大野川附近」の尖峰は奈川渡から前川渡にかけての風景である可能性が出てくる。

(8)尖峰は安曇岩? 桟道はどこに

ここでウェストンの著書に付属した地図(明治29年)と、陸地測量部輯製二十万分一図(明治23年)を見ておこう。

Mountaineering and exploration in the Japanese Alps
位置関係は比較的正確である

ウェストンが松本から橋場~稲核~大野川をたどったのは(明治27年7月30日)。丸山晩霞と吉田博が旅したのは4年後の6月21日である。たぶん同じようなルートだったのではないか。

陸地測量部輯製二十万分一図「高山」(明治23年)
安房峠の位置を含めて誤認が多いが、道路と川の位置関係に注目
二重線は当時の主要道(野麦峠越えの飛騨道)
点線の「新道」が梓川左岸に沿って記されている

福島立吉 口述『北アルプス乗鞍物語』(1986年)p158・p225によれば、明治21年に大野川から祠峠を通らず奈川渡へ出る道がつくられた、という。重要な記述なので引用しよう。

この道は大野川から前川の橋を渡り、峠の沢を渡った上の、お墓のある大曲の所から左へ分かれ、ヤマの中腹の斜面を巻いて、しぶなぎの上を通り、水窪、がんくらという大きな崩れの上を通り、梓川右岸の小日向に出ます。今の親子トンネルの所に安曇岩という大きな岩が川の中にあり、この岩に橋を架けて対岸のとばたに出、再び山の斜面を登ります。そして現在の奈川渡トンネルの上の辺りを通って、大白川と梓川が合流する天狗岩でまた橋を渡り、これから下は現在の車道とほぼ同じ所を下流へむかうものでした。

(福島立吉 口述『北アルプス乗鞍物語』1986年 ※福島氏は明治32年生)

下流から上流の順に並べ替えよう。

天狗岩~奈川渡~とばた~安曇岩(親子トンネル)~小日向(こひなた)~がんくら~水窪~しぶなぎ~大曲~峠の沢~前川の橋~大野川

この記述によれば、丸山晩霞の「大野川附近」の素描に描かれた尖峰は「安曇岩」であったのかもしれない。安曇岩がどんな風景でどこにあったは、今回の調査では突き止められなかった。古写真が見つかれば丸山晩霞と吉田博のたどったルートはさらに分かるであろう。ここで出てくる「とばた」(鳥羽田または砥畑)は、1757年のトバタ崩れという大規模崩壊で知られ、場所が特定されている。

国土地理院空中写真閲覧サービス
高解像度表示にすると安曇岩付近がよく分かる

丸山晩霞と吉田博がたどった梓川渓谷ルートを解き明かしていくためにポイントになるのは、トンネルと 桟道であろう。トンネルと言ってもまだ馬車が通るものでないだろうし、桟道は黒部峡谷下ノ廊下のあのイメージか。おそらく、奈川渡から前川渡にかけての風景であろう。

そしてもう一つの注目点は、丸山晩霞が描いた《大野川附近溪流に架せし奇橋》である。吉田博は「奇岩奔流桟道壮絶の所なり」の後、「ポンチの橋を渡り大野川村に投宿したるは夜なりき」と書いている。そのポンチの橋が、この奇橋なのであろうか。

丸山晩霞《日本アルプス写生内 大野川附近溪流に架せし奇橋》
29.0×29.0 丸山晩霞記念館蔵

晩霞は「夜半大野川という山村にたどりつき、宿舎をたたいて無理に宿を請うた」と記す。夜半というと気象用語では午前零時の前後30分とされる。晩霞はそれほど厳密に「夜半」と書いたわけでなかろう。この日、明治31年6月21日は夏至前日にあたる。日没は午後7時過ぎ、月も月齢1.9で午後8時30分頃には沈んでいるから、8時にはおそらく真っ暗になっていたであろう。暗闇の山道を進んで午前零時に到着というのは誇張ではないか。午後7時には描くことができない暗さになり、その後1時間か2時間以内で宿に着いた、ぐらいではないか。

奈川渡ダムに沈んだ梓川渓谷の風景を何とか再現できないものだろうか。昭和38年に完成した黒部ダムの湖底は、数枚の古写真と、関西電力がアジア航空測量に依頼して制作した8000分の1地形図(『黒四下流地点航測図』1956年)と、米軍の空撮写真によって、再現できる可能性が高い。奈川渡・水殿・稲核の安曇3ダムの場合、電力会社による地形図は残っていないのだろうか。

丸山晩霞と吉田博が書き残した素描は、永遠に失われた梓川渓谷風景をデジタル再現するときに重要な資料になるはずだ。

白黒写真のAIでカラー化して昔の風景をよみがえらせるという取り組みが近年盛んである。ならば、晩霞と吉田博の素描に単色で彩色してみるのも面白い試みになるのではないか。

(9)謎多い「平湯嶺より見たる大観」

白骨温泉と安房峠。丸山晩霞は白骨温泉を出発して平湯に着くまで約4900字もの分量を書いている。これに対して、吉田博の写生帖No.17の備忘録は、わずかに70文字弱、晩霞の実に70分の1で、意外なくらい素っ気ない。

凹所にたい積せる雪を見る、たちまち白峨々たる高山を認む。後にて聞けば硫黄岳ならん。境を越え飛騨に入る深林大いに面白し。坂道を下り平湯温泉小林方に泊す。

(『吉田博写生帖No.17』 読句点を付し、かな交じり表記に改めた)

感受性の違いかもしれないし、文章力の差かもしれない。この安房峠越えで晩霞の漫筆は極まる感があるが、場所を推定するための地名がほとんど出てこないので少々がっかりである。重要なのは吉田博が「硫黄岳」と書き止めたことだろう。

安房峠の麓の丸木橋(POLE-BRIDGE AT THE FOOT OF THE ABO-TOGE)H.J. Hamilton, phot.
Mountaineering and exploration in the Japanese Alps

ここで横道にそれるが、林氏の解釈に疑義を申し述べておく。2015年の論文で「麓の村々」とは文脈からすると信州側の白骨温泉から平湯峠の間の集落であろうと推測されている。平湯峠と安房峠の解釈ミスは指摘済みなのでもう言わないが、そもそも「麓の村々」が白骨温泉と平湯の間にあるという読み方は、初歩的なミスである。これはどう読んでみても、波多村近辺のことである。晩霞自身が前編第4章(6月20日)で書いた内容を受けただけのことで、白骨温泉から平湯まで「麓の村々」と言える集落などありえない。もうすこし丁寧に読んでほしかった。

「平湯嶺より見たる大観」(水彩画石版)『みづゑ』第14(1906年7月3日発行)

『みづゑ』第14(1906年7月3日発行)に、丸山晩霞の「平湯嶺より見たる大観」(水彩画石版)が掲載されている。横構図で、上半分が雪嶺、下半分が緑の高原のようにも見える。ただその高原のような中央部に、崖崩れのような茶色の部分が描かれ、それがこの絵のポイントにもなっている。

果してこれを描いた場所はどこか。

この絵に相当する記述は次の部分であろう。

森に入りて森を出づる幾回にして、ここは嶺の頂に近く右方に開けた所に出でたのである。巨観!! 壮観!! 奇絶、壮絶、壮厳、雄大、欣然きんぜん拍手して迎えたのである。それは皚々(がいがい)たる白雪に覆われた、信飛の境に巍然ぎぜんとして聳立せる連岳である。今ぞ雲霧の幕を切り落として、われらの眼前に顕出したのである。

(丸山晩霞「飛騨の旅」『みづゑ』第14、1906年)

一方、吉田博は、残雪を見たところで「白峨々たる高山」を認め、後で聞いたところ硫黄岳だった、とメモしている。

2人はもしかしたら地図も持たず、見える山の名を知らないまま旅をして、途中で土地の人に尋ねていたのであろう。県境を越える辺りの備忘録を吉田博がこのよう書いたことによって、この場所は安房山の東稜線である可能性が高くなった。「硫黄岳」は「焼岳」(2455m)の別名であり、平湯側での呼び名であるとされる。現代の地図では、十石山と乗鞍岳の間に硫黄岳(2554m)の可能性が残るが、「嶺の頂に近く右方に開けた所」と整合しない。やはり硫黄岳=焼岳とみるべきであろう。

こうなると、「平湯嶺より見たる大観」も、安房山の東稜線から北側を望む山並みすなわち焼岳から穂高岳にかけての山並みを描いたと推定できる。だが、下半分の高原のような描写が訝しい。まるで上高地の盆地を想像させるようでもある。

赤線は推定ルート

林氏は2015年の論文で、『みづゑ』掲載のカラー作品は1898年に描いたものでない、という旨の指摘していた。なるほどその通りである。

(10)平湯滞在12泊、大滝より鉱山が面白い

明治31年6月23日、平湯に到着し、それから丸山晩霞と吉田博は12連泊することになる。梅雨のさなかで13日間のうち8日間も雨に降られてしまう。ただ「大雨」は1日だけで、雨の止んだ時をぬうようにスケッチに出たようである。

24日は夜から雨。25日は終日雨。26日は日中雨、夜には上がり、27日は雨降らず。28日は朝からずっと雨。29日から1日まで雨降らず。2日は日中雨。3日は夜から雨。4日は終日雨。

平湯での2人の文章は、意外と簡略で、齟齬もある。また素描もあまり見つかっていないために判然としないことが多い。到着翌日の6月24日、晩霞は「平湯村を前景として、中景に平湯嶺の裾を現し、遠景に蝶ヶ岳の残雪を配したる位置にて、吉田氏も余も同じ位置にて油絵を始む」と書くが、吉田博は「雨天を冒して見物に行く。鉱山あり。平湯瀑布より面白し」と書く。

8年後の回想より、日をあまり置かずに書いたとみられる吉田博の備忘録のほうに信頼を置けるのではないか。晩霞の「位置」は村を前景にしたというが、そこから蝶ヶ岳が見えるのかどうか、いささか疑問だ。

平湯集落から見て、平湯大滝と平湯鉱山は同じ南東の方角に位置する。この方面への見物が、滞在初日(24日)だったのか、7月4日までの別の日か。晩霞はこう書く。

平湯より十丁あまり上りて銀山あり。銀の熔場を出づると大瀑布あり。平湯瀑という。高さ数干尺、水は奔逸矢のごとき勢をもって激下す。一日流れを渡りて瀑下に写生す。瀑燕群をなして〓翔す、瀑の左側なる岩壁を攀じて登る。数十丈の途に至りて、上るも下るも能はざる嶮峻の所に出づ。危険極まりなし、ようやく草を命の綱とたのみて頂に達し、銀礦を運搬する道に出でた。ここの眺望可にして、稜々たる峰頂白雪をかぶれるを見る。

(丸山晩霞「飛騨の旅」『みづゑ』14号)

集落から南東約1キロ(十丁あまり)にあった銀山は工場(精練)であり、吉田博が「瀑布より面白し」と書いたのは、この熔鉱所を指すのか、さらに奥にあった「銀山」採掘場のことなのかは分からない。

山岳会第2代会長になる高頭式(仁兵衛)が明治38年に記した「飛信界の乗鞍岳」『山岳』第1年第1号付録(明治39年)によれば、平湯鉱山の冶工場は地元でセイレン(精練)と呼ばれていた。平湯から徒歩30分で冶工場に着き、さらに徒歩で15分入ったところに平湯大滝(落差64m)があった。大滝から右手に滝壷を見ながら斜面を登り、右に渓流、左に笠が岳を見て大滝から1時間30分で平湯鉱山に着いた、という。

晩霞の書くところでは、大滝の左手を登り、「頂に達し」「銀鉱を運搬する道」に出たとある。現代の地図を読むと、平湯温泉スキー場から平湯尾根に登り、その尾根を進み、「眺望可にして稜々たる白雪をかぶれる」を見たというのは笠ヶ岳から穂高連峰を見たのかもしれない。しかし、戦前の地形図には乗鞍岳への旧道が記されていて、その旧道は大滝に左手を登ったあと、谷筋を通っていて、眺望はずっとよくないように思われる。「銀鉱を運搬する道」がどこなのか、大谷川原(標高1980m)近辺にあったと推定される平湯鉱山(採掘場)にまで足を運んだのかどうか、今後の検討課題になろう。

晩霞が描いた平湯に関する素描で確認されているのは《平湯大滝》1点のみだ。ほかに可能性がある素描は2点ある。《平湯嶺森林》は、安房峠を越えた直後に描いたと見るのが妥当であろうし、《日本アルプス写生の途上露宿せし夜/降雨ありて数葉のスケッチ画を失ひし内の一部》は平湯付近かもしれないが、場所の推定は難しい。

一方、吉田博の平湯での絵はこれまで知られていなかったのだが、先日、『飛騨案内』という本に、挿画(白黒図版)が出ているのを見つけた。鮮明ではないが、貴重である。

《平湯大瀧》吉田博画 白黒図版
富田秢彦 編『飛騨案内』
(富山県主催聯合共進会飛騨国出品協会、大正2年9月1日発行)p58

(11)野宿はホントか再び考える

飛騨の旅で2人が野宿したかどうか。前稿で既に論じた。野宿の根拠は2つである。

一つ目は晩霞の「飛騨の旅」の中の次の記述。

露宿どころか雨の降る夜、山中で立ちあかし、一日くらいの絶食は平気のもので、仙食と称して木の実や草の芽を食したこともある揃いも揃うたわれら二人は、人々よりも人間らしくないと言われておった。されど人間は人間であるから、恥も知り、空腹になればやっぱり苦しいのである。

この文章は、あくまでも一般論であって平湯での実話ではないのではないか。明らかに漫筆である。平湯周辺での野宿を推定できない。

野宿のもう一つの根拠は晩霞の素描《日本アルプス写生の途上露宿せし夜/降雨ありて数葉のスケッチ画を失ひし内の一部》(28cm×40.5cm)である。このメモ書きは、当時記したものではなく、おそらく8年後以降に記したものだろう。

私は疑問に思う。晩霞自身が大野川村に向かう途中で日没となったとき「平気で露宿をなすわけにもゆかぬ」と前編第5章に書いているし、後編第5章には「いかに仙骨なればとて、霞を吸い雲を食うて居らるるものでなし。日暮れて道遠しは露宿も出来て詩的のものである。旅費尽きて帰路遠しはいかんとも策の施こす道がない」という記述からも、2人の旅はテントで泊まるような旅のスタイルではない

林誠氏は、吉田博写生帖No.17の7ページ、〔素描 テントの中の人物二人〕と読み解いているが、早計ではないか。文章と絵の境界に線を引いたら三角形になっただけではないか。テントの中で傘をさすものなのか。いかにも奇妙だ。これはポンチなのではないか。この絵は、上田市美術館の週刊YOSHIDA第3話「仙人」の神頼みでも部分的に紹介されていた。

『吉田博写生帖No.17』

晩霞の「飛騨の旅」を読み解いていくと、野宿したとすれば平湯12泊のいずれかしかない。それ以外の18泊は旅館か知人の家に泊まっている。

吉田博の備忘録を読んでも6月23日に「平湯温泉小林方に泊す」とあるだけで、その後、小林宅で連泊したのかどうか。野宿ならそのような記述があってもおかしくないのではないか。

ちなみに、吉田博の『アメリカヨーロッパアフリカ写生旅行』には、浅間山で「終夜山上の露にぬれた」ことがあるという記述がある。

平湯滞在について、今後の検討課題をあと3つ挙げておく。

2人が地元の人に聞いてスケッチ場所を探していたとしたら、「平湯大ネズコ」(クロベ)という巨樹を訪ねた可能性である。樹齢約1000年、高さ23m、幹周760cmと言われるから、明治31年の時点でもかなりの威容を誇っていたはずである。晩霞か吉田博のスケッチにそれは残っていないか。平湯大ネズコが知られるようになったのは昭和に入ってからとされているが、本当か。

吉田博《黒部の滝、誦名滝》

もう一つ、吉田博の絵に《黒部の滝、誦名滝》という油彩が知られるが、平湯大滝の可能性はないか。直瀑が似ているような気もする。

そして、平湯峠(1684m)に足を運んだか否か。林誠氏は地図で平湯峠に行ったものとして線を引いている。「平湯嶺」=「安房峠」だとしても、平湯峠に足を運んだ可能性は否定できない。

(12)山への向き合い方は対照的

丸山晩霞と吉田博は明治31年7月5日、平湯を出発し、その後9日間かけて飛騨をめぐることになる。

この旅の目的はそもそも何だったのか。なぜ、平湯のあと平湯峠越えで高山町に向かわず、県境の蟹寺村(のちの富山県細入村)を目指したのか。蟹寺といえば、浮世絵の「籠の渡し」(歌川広重筆《六十余州名所図会「飛騨籠わたし」》1853年、三代歌川広重筆『日本地誌略図「籠渡之図」』)で知られる。明治5年には刎橋になっていたのだが、広重が描いたその場所を見ておこうとでも考えたのか。

吉田博写生帖No.17では、「(6月)十七日飛騨に行かんと欲し」「十八日飛騨に向ふ」とあるので、当初の目的は信飛国境を越えて飛騨に向かうことであったのは間違いない。ただ、峠を越えて飛騨で写生を行うという漠然としたものだろう。「日本アルプス写生」というのは、晩霞による8年後以降の後付けとみるのが妥当だ。

吉田博の「青年時代の晩霞君」という文章を読むと、博67歳にして40年前の回想ではあるけれども、飛騨の旅の実相が鮮明になる。当時31歳と21歳の2人は「地理的研究は皆無」で上高地という場所すらを知らなかったという。「飛騨の旅」は飛騨往復1か月間と決めただけの場当たり的な旅であり、「山岳画家」の原点としてとらえるには少々無理がある、ということであろう。

「飛騨の旅」から10年後、明治40年代以降、丸山晩霞と吉田博の山に対する考え方は大きく違った方向に進む。

晩霞は、山岳会の小島烏水と親交を結んで、烏水の著作に口絵を書いたり、山岳会機関誌『山岳』にも文章を寄稿したりした。明治40年に山岳会会員となった。『山岳』第5年第1号の寄稿「余と山岳」は、約4000字のやや情緒に流れたきらいのある文章だが、晩霞の山岳への向き合い方がよく分かり、かつ意味深である。

晩霞の故郷では、「日本アルプス」と「飛騨の山」は同義であったようだ。つまり、晩霞にしてみれば飛騨の旅は日本アルプスへの旅だったのかもしれないが、吉田博にしてみれば「行けども行けどもそれらしい山に出合えず」安房峠ならぬ「阿呆峠を越して阿呆を食った」わけである。

自分は深山にも高山にも登るが、他の登山者とは目的が違って居るから、用意が頗る簡単である。地図も持たぬ、露宿の用意も無い。あの山を越すと人家があるという事も知りたくない。無闇に這入込み、無闇に登るのである。雨が降ると木の下に避け、日が没すれば岩や石の陰等で寝る。白馬山に登ったとき、白地の単衣一枚着て、薄いズボン下と靴足袋に、草履をつけて登ったのもこれが為である。浅間山で飢えたのもこれが為である。槍ヶ岳一帯の残雪美を写生して、日を暮らし、平湯嶺の闇をさぐったのもこれが為である。上州花咲峠の展望を写生して日をくらし、五月闇に路を踏み迷い渓流をジャブジャブ下って来て、終に河畔で夜を明かした。朝になって見ると、そこは人家の側で、河場温泉の旅舎は一二丁の先にあった。こんな失敗をしたのも、これが為である。これらは決して褒めた事で無いが、自分性であるからしかたが無い。しかし悪い事は自覚しているから、これからは多少用意をして探勝をしようと思う。

(丸山晩霞「余と山岳」『山岳』第5年第1号 明治43年3月31日)

「平湯嶺の闇をさぐった」のがいつの山旅を指すのかはよく分からない。平湯嶺=安房峠なのか平湯嶺=平湯峠なのか。闇とは露宿を意味するのか。晩霞の山旅は、感じるままに行動し、感じるままに描くというもので、山旅としては無鉄砲のようにもみえる。むろん晩霞本人は反省をしてはいるようだが、吉田博がたどり着く「周到な山旅」とは大きく違っている。

晩霞の山岳画は、明治40年に文展出品作《白馬の神苑》やほぼ同じ主題の《白馬神苑》に見られるように、花畑に力点が置かれるようになる。吉田博が好む雲上の世界の描写、たとえば雲海の日の出やガスに霞む岩峰などに入り込んでいかない。

吉田博は、アメリカ・ヨーロッパ・アフリカの写生旅行を終えて明治40年3月に帰国すると、その成果を太平洋画展や文展で発表する。そして、ヨーロッパで写生したアルプスの絵18点を、明治42年5月の山岳会の大会で展示する。その経緯は詳らかではないが、先に山岳会の会員になっていた晩霞が吉田博を勧誘したのかもしれない。その後しかし、吉田博は山岳会とは関係を持った形跡がない。

丸山晩霞と吉田博は明治41年と42年、ともに加賀白山と越中立山に行ったというのが通説だ。しかしこれは誤認であるとみられる。予定はあったのかもしれないが、実際には明治42年に吉田博が単独で立山に行ったというのが事実だ。

それから今ひとつ自分の山岳観は、古来名山として世に現れて居る山は、見たくない、登りたくない、日本の富岳は、日本の名山よりは世界の名山であるが、自分は登りたく無い。見たくもないから、無論画にも描いた事が無い。何故にと問う人あれば、自分の心に適応しないからで、別に理由は無いと答える。富士よりも、木曽の御岳よりも、奥深く隠れて、人跡に穢されない、無名の霊山を探りたいのである。

(丸山晩霞「余と山岳」『山岳』第5年第1号 明治43年3月31日)

晩霞自身の文章によれば、富士と並ぶ霊山である白山や立山に登ることはなかったのではないか。

吉田博は明治42年夏に決行した北アルプス・立山写生旅行で、のちの木版画版画にもなる浄土沢と別山を描いた油彩《千古の雪》、立山カルデラを見下ろす水彩《雲表》、そして玉殿の岩屋での写生をもとにしたあの問題作《精華》を得ることになる。そして意外に知られていないが、あの山岳名ガイド宇治長次郎や立山ガイドらとともに山を歩き、遭難寸前を経験して、山旅の極意を学ぶことになるのである。吉田博にとっては、明治39年にヨーロッパアルプスやアメリカの登山ブームを実体験し、明治42年の立山でのさまざまな体験が山岳画家の原点となっていったのである。

「飛騨の旅」は、丸山晩霞と吉田博にとって、懐かしくも苦い経験であり、笑って済ませたい旅であったであろう。(了)

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