エンペドクレスとヘルダーリンの悲劇(あとニーチェ)

ネオ高等遊民です。

拙動画「何すご哲学史エンペドクレス編」の前書きです(草稿)。


実際の動画では話しませんでしたが(冒頭としては冗長すぎるため)、ドイツの詩人ヘルダーリンがエンペドクレスに何を仮託していたのかを知ることができます。


参考:拙動画はこちら

では以下、草稿部分です。途中からの引用なので、始まりが少々唐突ですが、そこはご容赦ください。


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エンペドクレスの学説と精神

たとえば残っている断片の分量はパルメニデスよりもエンペドクレスの方が多い。断片集の最新の校訂版ではパルメニデスが150ページなのに対し、エンペドクレスは400ページもあります(対訳ですが)。

でも、残っているテクストから直接、意義つまりすごさを引き出せるのはパルメニデスの方です。逆にエンペドクレスから直接引き出すのは無理がありすぎる。なぜって、四元素・愛と憎しみといった彼の自然哲学の世界観や、輪廻転生を前提する『浄め』の世界観がいまだに通用すると思う人はほとんどいないからです。

ではエンペドクレスは思想家としてはもう死んでいるのでしょうか? 哲学史の1ページに収まる標本でしかないのか? そう聞きなおすならば、そんなことは絶対にない。学説は死んでいるが、精神は死んでおらず、後世に影響を与えていると言わないといけない。


なぜか。それは、近代ドイツの詩人ヘルダーリンや、哲学者ニーチェといったそうそうたる人物が、エンペドクレスに非常な共感を覚えているからです。エンペドクレスの精神がしぶとく生き残っていると言える理由を感じてもらうためにも、このあたりの話を最初にしてみましょう。


悲劇『エンペドクレスの死』と論考「エンペドクレスの根拠」

たとえば、詩人ヘルダーリンはエンペドクレスを主人公にした悲劇の作成に生涯取り組んでます。結局未完成でしたが、何度も取り組んでいた。エンペドクレスは自分が神であることを証明するために火口に飛び込んで死んだという、とんでもない逸話があります。この死の意味、すなわちエンペドクレスの精神を現わそうとした悲劇です。

とはいえ、それがなぜ悲劇である必要があるのか? 別に論考とかでもいいですよね。実際彼は「エンペドクレスの根拠」という悲劇論も書いてます。悲劇を書いたのはヘルダーリンが詩人だったからだ、とかいう循環論法みたいな説明はなしです。


なぜエンペドクレスが悲劇の主人公として選ばれたのか? 

これはヘルダーリンの悲劇観にかかわります。演劇とは一般に、人間の激情や不条理を描くものと理解されます。ギリシア悲劇がそうですよね。オイディプス王みたいな最高に優れた人間が、スフィンクス退治やライオス王殺しの犯人を追究するといった最高に優れた行為を発揮しながら、運命の不条理によって最悪の結末にいたる。

でもヘルダーリンにとって悲劇はそれだけじゃない。ヘルダーリンは悲劇を「真なるものの最高の表現形式」と言ってます。いや、よくわかんないけど、とにかく最高の真理を描けるのは悲劇だって言ってるんです。その主人公がエンペドクレス。

つまりヘルダーリンは、エンペドクレスのなかに最高の真理を見た。ふつう、近代ヨーロッパ人にとって最高の真理って、神とかイエスキリストとかなイメージですよね。だからイエスの受難を題材にした悲劇とかなら、まあそうなのかなって思いますけど、まさかのエンペドクレスを題材にしているんですよ。

これは、ちょっと一見、とんでもないことですよね。一体どんな劇なんだよというと、かつて親密な間柄にあった自然つまり神々と不和に陥ったエンペドクレスが、自然と和解して合一するためにエトナ山の火口に身を投じる、というものです。意味わかんないですよね。

この悲劇はエンペドクレスの死の意味についてです。ヘルダーリンはその意味を自然つまり神々との和解と考えた。しかもこれはエンペドクレスが勝手に実存的な理由で身投げしたんじゃなくて、自然と人類、神々と人類との和解が意識されていて、エンペドクレスは人類のための犠牲になったんだヘルダーリンは考えた。

人類は文明の発展とともに、自然や神々と不和になった。それは罪とも表現される。その人類全体の罪をあがなう犠牲としてエンペドクレスは自ら命を神々と自然にささげた。あれ? なんか聞いたことがあるような……ってわけですよ。


ヘルダーリンは、エンペドクレスという人物にイエスキリスト級の精神性を見ていた

ここから言えることは、少なくともヘルダーリンは、エンペドクレスという人物にイエスキリスト級の精神性を見ていたこと。というか、自然と人類との調和・和解という問題に関しては、エンペドクレスという人物はイエスキリスト以上にふさわしい題材だったと思われたわけです。


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ヘルダーリンとエンペドクレスの関係は以上です。


参考になった論文がありますので、こちらも紹介いたします。

畠山寛(2017)「運命の「偶有性」から悲劇の「理念」へ : 書かれざる悲劇 『エンペドクレスの死』」『駒澤大学外国語論集22』pp. 9-28


おまけ:ニーチェとエンペドクレス

ニーチェについてもごく簡単に話しましょう。ニーチェはまさにヘルダーリンを介してエンペドクレスを知りました。

ニーチェもエンペドクレスを主人公にした悲劇を書こうと思ったらしく草稿が残されています。ニーチェは古代ギリシアの文献学者だったのでエンペドクレスについてのまとめも講義ノートも残されています。

あるいは友人あての書簡でエンペドクレスはすごいやつだと言ってますし、きわめつけはあの『ツァラトゥストラ』も最初はエンペドクレスがモデルだったという説もあります。

ちなみにヘーゲルと同時代の哲学者シェリングも、エンペドクレスの認識論的な断片に注目したことがあります。それは等しいものは等しいものによって認識されるというような内容ですが、シェリングは絶対者とか絶対的主体とか自由とか知恵といった崇高なものを私たちはいかに認識するか、という課題の出発点にエンペドクレスを援用しています。


これらのことだけでも、エンペドクレスには、時代を超えて偉大な文芸精神の持ち主を強力に揺さぶる何かがある、と言わなければならない。したがって、学説は死んでいるが、精神は死んでいないと言わなければならない。そう言えないなら、ヘルダーリンやニーチェやシェリングらは単なる間抜け・勘違い野郎だったってことになりますよね。とっくに賞味期限切れの思想を持ち出して、なんか偉そうなこと言ってるわけですから。もちろんその可能性も0じゃありませんが。おまけにヘルダーリンやニーチェなんて発狂しちゃってるんですよ。それくらいの連中が真剣に取り組んだ対象がエンペドクレスなんです。


だから、エンペドクレスの理解なくしてヘルダーリンやニーチェの精神の理解することあたわず! といっても言い過ぎではありません。まあ少なくとも、ニーチェが心酔した理由は、今回の話を聞いてもらえれば、ばっちり伝えられると思います。ヘルダーリンのことはみんなよく知らないと思うけど、ニーチェなら超人とか簡単なイメージはお持ちでしょう。ツァラトゥストラ=エンペドクレス説には物的証拠はなさそうなんですが、今回の話を聞けば、この説が十分にありうるとは感じられるはず。


では、彼らに衝撃を与えたものの正体、エンペドクレスが秘める強烈な揺さぶり、インパクトを一言で表現すると何か。その最大のキーワードが「パルメニデスの対抗者」という言葉です。これは私の造語ではなく、シンプリキオスという古代の哲学史伝承者の言葉です。シンプリキオスはなんの気なしに書き残したかもしれませんが、まさにエンペドクレスの本質。


以上が拙動画・拙稿の前書きです。もし拙文をきっかけに、エンペドクレスの思想自体に関心を持ってくださることがあれば、ぜひ拙動画「100分deエンペドクレス」をご覧くださいませ。


拙動画を見て、ヘルダーリン悲劇を実際に読んでくださった方の考察記事です。



ヘルダーリンの悲劇の翻訳

2種類あります。ネオ高等遊民はいずれも中身は未確認です。読んでみたいですが、絶版のため、海外での入手は難しいですね……。ということで、皆さん読んでください!!笑


☆『悲劇エムペードクレス』 (岩波文庫)

かなり古い翻訳です。


☆『ヘルダーリン全集〈3〉ヒュペーリオン・エムペドクレス』

2007年です。1960年代に出版された全集の新装版かもしれません。

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