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小柄で可愛いい女の子。
小学生だったちいちゃんは
バレンタインデーの日に
息子にチョコレートを届けてくれた。
我が子が初めて
チョコレートをもらったことが
わたしはうれしくて、照れくさかった。

ちいちゃんは目が閉じられず
いつも赤く充血していて
乾燥しないようにラップで覆っていた。
大きな瞳なのに見えていない。

昨年の今日
ちいちゃんの弔問に伺った。
14年間の儚い生涯。
「会いに来るのが遅くなってごめんね。
息子がぐずっちゃって・・・」

ちいちゃんの母とわたしは友人。
ちいちゃんがお空にのぼったことを
受け入れるべく、気丈な友人の姿に
苦しくて胸がつぶれてしまいそうだった。
「してあげられることは全てしてきたから
思い残すことはないの。姿はなくても
あの子はここにいるから・・・」と
胸に手を当てた。
自信があるからではない。
そう言わなければ母としての
こゝろが耐えきれないのだろう。
わたしにそのことばが言えるのだろうか。
思い残すことがないほどの
それほどの愛情を注げているのだろうか。
まだ足りなかった、もっともっと・・・と
後悔の念が押し寄せてくるはず。
一から十まですべてを
我が身と重ねてしまう。

わずかな、ほんとうにわずかな狂いでも
いのちが途絶えることがある。
その日、いつもの朝を迎えたのに
夜には持ち堪えることができなかった
小さな心臓。
弱き者小さき者をあとどれくらい
見送らなければならないのだろう。
ひとつしかないいのち。
それは強き者大きな者も同じで
散れば咲く、また散れば咲くなど
できないのだ。
わかっている・・・けれどほんとうに
わかっているのかと
自分を戒めた一日でもあった。

帰り際に
「あの時もらったチョコレート、息子は
食べないで持っているのよ」
我が子もおそらく食べることができない
チョコレート。
中身はもう傷んでいるだろうに
あのままの状態で取り置いている。
どんな声掛けも優しさも
友人の救いにはならないけれど
「チョコレート、ありがとうね」
やっと絞り出したことばだった。
ちいちゃんにもらったチョコレートは
ちいちゃんと息子の大切な跡になる。
傷みきっても溶けきっても
跡になる。

あの日、友人の家の庭先には
桃色の百日紅が
控えめに、鮮やかに咲いていた。
見えない目で見ていたに違いない花。
救われたのは
あきらかにわたしの方だった。
ちいちゃんの花に救われたのだ。

今年も咲いているだろう。
あの日より
もっと控えめにもっと鮮やかに。

また
ちいちゃんの夏が、ゆく。


―散れば咲き散れば咲きして百日紅―
   (加賀千代女かがのちよじょ
  

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