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誰そ、想ふ

人は過去に囚われていては善き未来へと羽ばたけない。果たして自分は何を考えているのか、何のために生きるのか、遥か先のことでも、前が見えなくては、明暗も色彩も、人の表情も、何も分からない。

凛とした早朝の雨空、まだ成熟していない柘榴を頬張る。甘味は微かに感じるが、まだ酸味が強い。もとより期待はなかったが、期待をしていた。若い芽を摘むことは未来を摘むことと為す。若き者が杯を酌み交わすようにはなれない。立ち入り禁止は文字通り、立ち入ってはならなかった。自然では芽を出すだけでも華麗なことである。まだ青いのは私のほうなのかもしれない。

日本は古来より八百万の神を信じてきた。どこかしこにも神は存在し、空、山、地、海、それぞれを守る。非力な私はよく神頼みをするが、神という存在を信じない者も多いだろう。目に見えないものを信じることの方が普通ではないのかもしれない。目に見えないものを見ようと、見透かそうと、あまりにも雑然たる態度であった。野原を颯爽と走る馬は、先を見据えて走っている。聳え立つ崖を登る鹿も、登頂を見据えて登っている。皆に見えるものが見えなくなった時、私は多くの時間を欲した。心の目を養う必要があった。

自然で生きる動物は常に警戒心を怠らない。生死は一瞬の緊張で変わる。食に貪欲に、時に死を目の当たりにすることもある。怪我や病気では死を待つだけである。生きて子を残すという強い意思の故、彼らは強い。いかなる事象に苛まれても強く生きる。人間の視野はせいぜい90度である。動物の中には270度見えるものもいるという。人に見えるものには限りがあって、全て見える人など、存在しない。

親は子を子は親を愛する。乳児の頃は親の肌の温もりを欲する。そこにこれといった意識はない。親に世話をしてもらい、生きていく。親鳥は雛に餌を与える。子は当然のようにそれに群がる。成長し巣立つまでは、まだまだ未熟である。親の愛情は目に見えなくとも確かに感じるものである。多くの月日が経過しても、子が親を越すのは身長だけなのかもしれない。子は親の偉大さにいつまでも気づけない。子が子である間は。

目に見えないものは難しい。神も、視界も、感情も、自分の行方さえも…。
未熟で何も分からない私は、過去をずっと眺めている。

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