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やれやれ

最近、窮屈だなと感じることが多い。
自分の手に負えないものが多くなりすぎていることが原因の一つなのだろう。
これは私の情報感度が上がったということではなく、入り込んでくる情報が加速度的に増えているからだと思う。
もちろんインターネットの普及や、SNSの隆盛もあるのだろう。それからデジタル化の進展も。

そうした流れの中で、旗幟を鮮明にすることが求められている気がする、具体的にだれかから、というわけではなく、一種の強迫観念だ。

自分自身は脇は甘い、感情に流されやすい、おおむね、いい加減。
ただただ、親切な方々に支えられ、運だけでここまで生きてこられた人間だ。

だから、というわけでもないが、週刊誌のスキャンダルで石礫が飛ぶような昨今の状況には、やれやれと思ってしまう。もちろん、性的な暴力は絶対にだめだ。だけど、プライベートな家庭の問題などで頭を下げたり謝罪会見をしたりしている人を見ると、一体全体、誰に謝っているのか首をひねってしまう。

何か似てるぞ、と思うのは、はるか昔の「フォーカス」や「フライデー」の全盛時代。
そうしたスキャンダルをよだれを垂らしながら追いかける人たち。
不善をなす人に、まるで自分が傷つけられたかのように怒りの声をぶつける人たち。
そうした状況にため息が出たものだが、今はそれよりずっとひどい。

ネットはトイレの落書きのようなものだと、2000年あたりには言われていた。でも、落書きはそこにとどまるが、現代の落書きは羽をつけて、不特定多数の人のもとに飛んで行ってしまうのだから。

個人的には、何年か前から、怒ることや論争することをやめた。
もっとも民間人を平気で殺戮するような輩など、巨悪への怒りは別で、完全にやめられたわけではないけれど、できるだけ怒らないようにしている。
感情が乱れた時は、立ち止まったり、深呼吸をしたりしてみることにしている。
そうすることで、自分の中に少しは残っている、豊かさのようなものが損なわれることが減ってきた気がする。

一方で、自分は正しいという言説が、あちこちを徘徊していて、私の目にも入ってくる。自分のコンディションがさほど万全でないときが危ない。狭い部屋に閉じ込められたような気になってしまう。
でも、そういう時は窓を開けて深呼吸をしよう。
リアルな世界にはまだまだ、喜びだって満ちているのだから。


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