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短編【古戦場で濡れん坊は昭和のHERO】小説


昭和21年。天皇陛下が神様から人間になって、タバコの『ピース』が発売されて、そして歌舞伎役者の片岡かたおか仁左衛門にざえもん一家が惨殺された年。私はあの人に出会った。あの人は国民服姿のまま、よろよろと私の前に現れて崩れ落ちるように膝から倒れた。鎌倉は冷たい雨が降っていた。

「え?ちょっと、大丈夫?ちょっとお兄さん?お兄さん!!」

気を失いかけたあの人は、私の声かけに幾分か気を取り直した。私はあの人を支えて御堂に入った。もともと私が逃げ込もうと思っていた御堂に。私は汽車の中で食べようと思っていた握り飯と乾いた手拭いを鞄から取り出した。

「これを使って下さい」
「ありがとうございます」

その人は、手拭いを受けとると濡れた国民服を少し脱いで、体を拭いた。はだけた国民服から見える肌着は血でベットリと汚れていた。私は見ては行けないものを見てしまったと、あからさまに目を伏せてしまった。その人は慌てて国民服を着直した。

「これもどうぞ」
「いいんですか?ありがたい!」
私が握り飯を差し出すと、その人はむせながら急いで頬張った。

「ご飯、たべて無かったんですか?」
「三日ぶりです。美味い。本当に美味い」
「それじゃあ、これだけでは足りませんね」
「いや。これで充分です。久しぶりの白い飯だから腹の中が驚いている」

やがて雨音は大きくなって、私たちが潜んでいる御堂をはげしく叩いた。

「すみません。雨が止んだら出て行きます。ここはどの辺りでしょうか?」
「稲村ヶ崎です。稲村ヶ崎の御堂です。御堂だから、出て行く必要はありませんよ」
「稲村…そうですか」
「あの、これ」

私は一冊の濡れた本を、その人に渡した。本はもともと、ほころびていたけど雨で濡れて紙の塊のようになっていた。

「ごめんなさい。ここへ来る途中にあなたの懐から落としてしまって。中は泥水で、ほとんど読めなくなってます。直ぐに拾っていれば」
「構いません。………『伝統の美だの日本本来の姿などというものよりも、より便利な生活が必要なのである。京都の寺や奈良の仏像が全滅しても困らないが、電車が動かなくては困るのだ』」
「え?」
「中身は全部、暗記しています。坂口さかぐち安吾あんごの日本文化私観の一節です。『寺があって、後に、坊主があるのではなく、坊主があって、寺があるのだ。寺がなくとも、良寛は存在する。もし、我々に仏教が必要ならば、それは坊主が必要なので、寺が必要なのではないのである。京都や奈良の古い寺がみんな焼けても、日本の伝統は微動もしない。』大丈夫です。頭の中に入っています」
「お寺なんて焼けてもいい。…随分、過激な言葉ですね」
「ええ。坂口安吾らしい言葉です。ですが、僕もそう思うんです。日本の伝統は形に凝りすぎる。本当に伝統を信じているのなら、その伝統に芯があるのなら、形は無くとも消え去る事はありません。あなたは歌舞伎をご覧になりますか?」
「いえ」
「歌舞伎はもう駄目です。GHQに干渉されて歌舞伎は自由を失った。アメリカ人が夢想する日本の伝統の中に閉じ込められたんです。歌舞伎は死んでしまった。いずれは滅びてしまうでしょう」

稲光が煌めき、少しして遠くで雷鳴が鳴った。雨は当分止みそうにない。その人は突然、自分の国民服のポケットを探った。

「もう一冊、本がありませんでしたか?」
「もう一冊?いえ、気付きませんでした」
「そうですか。どこかで落としたんだな。残念だ」
「どんな本ですか?」
「洋書です。『タバコ・ロード』と云う題名の小説」
「タバコ・ロード」
「アメリカ南部の貧しいタバコ農家の話です。タバコ・ロードと云うのは、煙草の葉や綿花を運ぶ道の事です。100年以上かけて馬車の轍だけで作った道。僕は、あの小説を読んで日本は文学でもアメリカに負けたと思いました。タバコ・ロードを書いたコールドウェルの文章は冷たくて乾いています。勿論、日本にも冷たい文章を書く作家はいます。ですが日本人のそれは冷たくて湿っている。僕が知る限り、冷たくて乾いた文章を書く日本人は坂口安吾だけです。...どうすれば安吾のような極限まで乾燥した文章が書けるのだろう」

あの人は最後は自分自身に言い諭すように呟いた。

「タバコ・ロードを実際に見れば」
「え」
「あ、すみません。その道を実際にご覧になれば、貴方の言う乾いた文章が書けるんじゃないかと、勝手に思ってしまって」

あの人は急に黙って、私を見つめていた。また稲光が瞬き少しして大きな雷鳴が轟いた。

「どう…しました?」
「いや。もう少し早く貴女に会っていれば、私の人生も変わっていたのかもしれない」
「…人生」
「ああ、すみません。私ばかりがしゃべって。あなたの話を聞かせてくれませんか?なぜ貴女はここに?」
「私は…。私は逃げてきたんです」
「何から?」
「亡者です」
「亡者?」
「金の、亡者です。私はサーカスの踊り子をしていました」
「曲馬団の」
「曲馬団だなんて、随分、古い言い方ですね」
「申し訳ない。続けて」
「戦争のせいで、他のサーカス団同様に私達も解体の憂き目にあいました。動物達は殺され、若い男達は戦地へ。残ったのは女達と片腕の無い団長だけ。私達は団長がみなもとの義貞よしさだの子孫と云う縁で鎌倉まで来たんです」
みなもとの義貞よしさだ

「本当かどうか分かりませんけど。戦争が終わって、もし生きて居るのなら、皆でもう一度サーカスをしよう。義貞よしさだが鎌倉の合戦で勝利した、稲村ヶ崎の古戦場で再び落ち合おう。そう約束をして。だけど、ここへ来て団長は変わってしまいました。地元のヤクザと手を組んで闇市を始めたんです。ヤクザの言いなりになって私達に身体を売らせて、暴力を振るうようにもなりました」
「それで、逃げ出した」
「その途中で貴方に。このまま始発に乗って、この街を出る筈だったのだけど」
「それは申し訳ない事をしてしまった」
「いえ。これで良かったんです。私だけが逃げてしまったら、残された子達がもっと酷い目にあってしまう。そこまで考えが行き届きませんでした。夜が明けるまでに戻ります」
「その男がいなければ、貴女は、貴女達は幸せになれますか?」
「え?」
「幸せになれますか?」

私は小さく頷いた。

「どこです?その男がいる場所は」

そう言うと、あの人は私に団長が住んでいる長屋まで案内させた。雨の中、ただ黙って二人で歩いた。長屋につくと、あの人は台所の場所を私に聞いて中に入っていった。そのまま私は雨の中あの人を待った。ただひたすら、ずっとずっと、雨の中で。

激しい雷鳴と雨音が私を包んだ時、長屋から、あの人は出てきた。国民服は血に染まり、右手には同じく血にまみれた包丁を握っていた。そして豪雨の中、あの人は叫んだ。

「これで貴女達は自由です。どこへでも、好きな所へ行って下さい!」
「あなたは!?」
「私は……私はこれからタバコ・ロードを見に行きます!?貴女のおっしゃる通りに!」
「あの!」

私たちの声をかき消さんばかりに雨はいよいよ激しく降っていた。

「はい!」
「お名前は?貴方のお名前は?!」
「私は...私の名は飯田いいだ利明としあきです!飯田いいだ利明としあきです!!」

それから13日後。昭和21年3月30日。歌舞伎役者、片岡かたおか仁左衛門にざえもん一家を殺した男が捕まった。犯人の男は座付き作家だった。世間は彼を口汚く罵った。だけど、私にとっては間違いなく……間違いなく私を救った、ただ一人の。

たった一人のHEROだった。


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タバコ・ロードにセクシィばあちゃん


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