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短編【領空侵犯】小説

十三時が過ぎた。
そろそろ彼がやってくるころだ。
ところが約束の時間に店に入ってきた客は私の知らない別人だった。

なんだ、同姓同名か。 
がっかりしたと同時に少しほっとした。
考えてみれば、そんな偶然があるわけがない。
あの人に会ったら、私はまた狂ってしまうかもしれない。
そう思うと私はもう一度、ほっと胸を撫で下ろした。

山川やまかわひろし
フェイスブックで検索すれば五、六人は出てきそうな名前じゃないか。
同じ名前の人に出会ったとしても不思議じゃない。

予定より少し遅れて来た客は受付にやってきた。
私の目の前に。

「ご予約ですか?」
「はい。十三時に。山川やまかわです」

その声を聞いて私は次の言葉が出てこなかった。
予約名簿から目を外して、そっと客を見た。
間違いない、あの人だ。
四年ぶりに聞いた、あの人の声だ。

遠目から見るとまったく印象が違っていたけれど近くで見れば間違いなく、あの人だった。
少し白髪が増えて、ちょっとだけ老けちゃってるけど、あの人に間違いない。


今日は、どうされました?
と歯の状況を訊き。
次いで、お呼びするまで、お待ちください。
と待合室のソファへ誘導する。

という一連の、お決まりのマニュアル通りの手順をすっかり見失ったまま、私は彼を見るでもなく名簿を見るでもなく曖昧な空間に目を泳がせていた。


あの人がやってくることは三日前に予約名簿を見て知っていた。
だけど本当に彼なのだろうかと三日間落ち着かなかった。
充分に時間があったから私はあの人と対峙したときの事を想像した。
何度もシミュレーションをした。

気づかないふりをしてやり過ごして、向こうが
「・・・美和みわ・・・なのか」
と声をかけてきたら
「・・・え?ひろし・・・さん?」
と驚くパターン。

逆にこっちから
「お久しぶり、ひろしさん」
と声をかけ、あの人が
「え?・・・美和みわ・・・なのか?」
と驚くパターン。

その他、いくつものパターンを変えてシミュレーションをした。

奥さんを連れて来たパターン。
赤ちゃんを抱っこして来たパターン。
突然、薔薇の花束を出して「誕生日おめでとう」「あ、来月です」と言うパターン。
女装してきて「お久しぶり。私、こうなっちゃった」とカミングアウトされるパターン。

とにかく、ありとあらゆるパターンを妄想したのに。
結局、私は気の利いたことひとつも言えなかった。

「あ、あの。向こうのソファで、お待ちください。あの、お声がけしますので」
「はい」
あの人は私に気付かず言われた通りにソファへ向かった。

気がつかないかー。
そっかー。
四年ぶりだし。
サージカルマスクで顔の半分隠れちゃってるしね。

でも残念。
気付いてほしかった。

裁判所で戦いあった仲なのに。

半径100メートル以内に接近しないこと。
って示談書を突き付けてきたのは、あなた達の方なのに。

そっかー。
この町に引っ越してきたのかー。

半径100メートル以内に接近しないこと。
っていう示談書の内容を真っ先に破ったのは、あなたですからね。

私は予約名簿を見てあの人の住所を確認する。
ふーん
楽しくなりそうだ。

⇩⇩別の視点の物語⇩⇩

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