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短編【愛無き愛児】小説

暗過ぎず明る過ぎず、ちょうどよい上品な照明が灯るそのバーラウンジには、大き過ぎず小さ過ぎず会話の邪魔をしない耳触りの良いジャズが流れている。ジャスのナンバーはバート・バカラックのアルフィー。甘く切ないメロディが大人の夜を演出する。

「ごめんなさい。少し遅れちゃた」
「いや、そんなに待ってないよ。珍しいな君が遅れるなんて。いつも僕より先にいるのに」

いつもなら約束の時間の三十分前には広瀬ひろせ由花ゆかはバーラウンジの椅子に座っている。狭山さやまじゅんを待たせた事など一度もなかった。

「なに頼む?いつものでいい?」
由花ゆかは無言で狭山さやまの隣に座る。

「この前、話したパリ旅行だけどね、良い部屋が取れたんだ。凱旋門とエッフェル塔とルーブル博物館とノートルダム寺院が横一列に見える部屋で………あ、注文は?」
「いえ…今日は」
「ん?どうした」
「今日は、直ぐに帰るから」
「どうして?久しぶりに会ったのに。一カ月ぶりだろ?今日は付き合ってくれよ」
「今日ね。今日、おばあちゃんのお葬式があったの」
「…そうか」
「九十歳になるんだけど杖なしでスタスタ歩いちゃうし読書家で好奇心が旺盛で、私なんかよりも世間の事をよく知ってる憧れのおばあちゃん」
「病気で?」
「ううん。おじいちゃんがね、ずっと前に亡くなったんだけど、そのおじいちゃんを探して施設を抜け出したんだって」
「認知症?」
由花ゆかはしずかに首をかしげた。狭山さやまはハイボールを一口飲む。

「それで施設の近くの雑木林で見つかって」
「そこで亡くなってた」
「うん」
「それはショックだな」
「ショックっていうか、おばあちゃんらしいな、って。認知症にも色々あって、普通は少しずつ症状が現れるらしいんだけど、急にそうなる場合もあるらしくて。だけど、私は認知症なんかじゃなかったって思う。おばあちゃんは本気で、本気っていうか正気のままで、おじいちゃんを探しに行ったんだと思う。おじいちゃんと別れて過ごした17年間の思いが抑えきれなくなっただけだと思うの」
「愛してたんだね、おじいちゃんの事」
「淳さん」
「ん?」
「あたしね......本当は黙っていようと思ってたんだけど」
「なに」
「………赤ちゃんが出来たの」
「え?俺の?」
「うん」
「ほんとか由花!」
「待って!喜ばないで」
「どうして!俺がどんなに子供が欲しかったか!」
「分かってる。だけど聞いて。赤ちゃん、出来たんだけど駄目だった。流れちゃた」
「流産、したのか」

由花は視線をバーカウンターに落とした。ダークブラウンの磨かれたバーカウンターは天井から吊るされた照明に照らされて優しく光を反射している。

「どうして知らせてくれなかった」
「だって淳さん、忙しいでしょ?選挙も近いし」

狭山はため息をつく。それでも知らせて欲しかった。狭山はそう言おうとしたが、それでは彼女を責めてしまいそうで言葉を飲み込んだ。

「私、淳さんに会えなかったこの一カ月間で色々考えたの。生理が来ないから、もしかしてと思って病院に行ったら赤ちゃんが出来てるって知らされて。だけど心臓が動いてないって言われて。この事は淳さんには黙っていようと思ったの。言っても悲しむだけだから」
「そうか。じゃあ、どうして言う気に?」

由花ゆかは少し間をとってゆっくりと話した。視線はダークブラウンのバーカウンターから離さない。由花はこのバーラウンジに来てから一度も狭山の目を見てはいない。狭山さやまもその事に気づいてはいるが、とくに触れないようにしている。

「……人は諦めながら年を取っていくんだ。夢を捨てながら年を取っていくんだ」
「ん?」
「おばあちゃんが言った言葉。人は夢を捨てながら年を取っていくんだ。だから夢を沢山持ちなさい。若い内に沢山、夢を見つけなさい。年を取っても捨てきれないくらいに沢山探しなさい。おばあちゃんが私にそう言ってくれた事を今日、思い出したの。だから、淳さんに言おと思ったの流産のこと」
「どういう事?」
「淳さん、私と結婚してはくれないんでしょ?」
「その話はとっくに終わったじゃないか。妻とは別れる事は出来ない。だけど、あいつのと間には子供もいない。お前との間に子供が出来れば、ちゃんと認知もするし」
「私ね、自分が赤ちゃんを堕ろす日が来るなんて思ってなかった。赤ちゃんが出来たら、どんな事が起きても絶対に産むんだって、そう思ってた」
「流産と人工中絶は違うよ。僕らの場合は仕方のない事だ」
「もっと悲しむと思ってたの。30分くらいで手術が終わって、病院出た後、私何したと思う?吉野屋で牛丼たべたのよ。子供堕したばかりなのに。本当はもっと泣きたかっのに。気が狂って気が狂って死にそうになるくらい泣き叫びたかったのに。私って薄情な女だと思ったの」
「そうじゃないよ。君は薄情なんかじゃない。子供が出来たを知った時には、もう駄目だったんだろ?情が芽生えるには時間がなさすぎる」
「違うの。その答えが今日、わかったの。おばあちゃんのお葬式で。おばあちゃんの言葉で。人は諦めながら年を取っていくんだ。夢を捨てながら年を取っていくんだ…。私、年を取った時に捨てる夢がないって気づいたの。このまま淳さんといたら、捨てる夢がないままに年を取ってしまう」

狭山の携帯電話が鳴った。狭山は慣れた手つきで携帯電話を見ずに着信を切った。

「いいの?電話」
「結婚だけが夢じゃないだろ?他にも、もっと」

再び電話が鳴る。狭山は軽く舌打ちをして電話に出る。

「はい。…分かった。直ぐ行く」
狭山は右腕にはめているセイコーのアストロンをちらりと見て「十五分くらいだ」と電話の向こうの相手に告げる。

「すまない。今度、時間を作るから、ゆっくり話そう」

由花は首をふる。もう、会わない。と言いたげに。狭山は何か言いたげだが、やめた。今は声をかけるべきではない。狭山はそう直感した。閉ざされた由花の心を開くには時間が必要だ。そう判断して、今日は一旦は無言で去ろうとした。だか、そのまま本当に無言で立ち去るのは冷たい過ぎる気がした。

「来月のパリ旅行には行くだろう?その時に」
「ごめんなさい。キャンセルして」
「そうか。また、連絡する」

去って行った狭山の後ろ姿を見て由花は自分のお腹を愛おしく撫でた。

「…言えたよ。私、あなたのお陰で思ったこと全部言えた。ありがとう。今日で泣くのは止めるね。いいよね?もう、泣き疲れちゃった。少しの間だったけど、私の所に来てくれて、ありがとう……ありがとう…」

バーラウンジには、いつの間にかダイアナ・クラークの『Cry My A River』が切なく流れていた。

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