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短編【私はピアノ】小説


その部屋からはパリの市内が一望できる。ホテルの最上階から絵画のような夜景を堪能できるのは、ごく限られた人間だけだ。地上に煌めく銀河のようなパリの夜景は、時間と共に変化する芸術作品のように人々を魅了する。

「あ、もしもし。留守電聞いた。お母さんの誕生日、来週の日曜日でしょ?分かってるよ。お姉ちゃんからも連絡あったから。それよりさ、お兄ちゃん。今、わたし何処にいると思う?ううん。違う。ううん違う。ブッブー外れー。違う、全然違うヒントは海外。あのね。違う違う。あのね、ううん。違う」

そんな高級ホテルには似つかわしくない若い女性が電話をしている。西宮にしみやひとみだ。ひとみは携帯電話を持ってはいるが、わざわざホテルに備え付けられているヨーロッパデザインのアンティークな電話を使っている。

「ううん。違う。ううん。ちが、さっき言ったでしょそれ、違う違う、全然違う。あのね。違うってば。ちょっと待って、どこそこ?南アフリカ?違うよ。それも違う!あのね、違う違う、あの、ちょ、あの、ちょ、あの、ちょ。え?ストップ!ストーップ!今出たよ。正解。今、言ったでしょ。違う、その前のやつ。その前!その前!そのま、なんで自分が言った事おぼえてないの!いいよ、もう教えない。だって今言っても「えー!なんで」ってならないでしょ、正解出たんだから!こっちは「えー!!なんでー!なんでそんなトコにいるのー!」ってのを聞きたくて問題出したのに。おっとっと!」

話に夢中になっている瞳は、固定電話である事を忘れて歩き周り、ホテルの電話を台から落としそうになる。

「あ、何でもない、何でもない。え?一人じゃないよ。秘密。今は秘密。お兄ちゃんがビックリする人だよ。ううん違う。ううん違う。ううん違う。ううん違う、ちょっと待って!ストップ!ストーップ!ちょっと待って!まさかと思うけど正解が出るまで言う気じゃないでしょうね。近々教えるよ。今はダメ。んーー。約束は出来ないけどお母さんの誕生会の日に教えてあげる」

突然、ポケットに入れている瞳の携帯電話が鳴った。

「あ、ちょっと今、携帯電話が鳴ったからから切るね。え?いま、これは携帯からじゃないよ。え?固定電話。何でって、何でもいいでしょ。とにかく切るね。うん。じゃあ、来週。あさって日本に帰るんだから間に合うよ。うん。うん。うん。じゃあね。うん。うん。じゃ、うん。うん。じゃね!うん。うん。じゃ」
瞳は話の途中で電話を切って受話器に向かって「長いよ話が!」と一喝して急いで携帯電話にでる。若者はとにかく忙しい。

「もしもし!由花ゆか?ライン見た?そーーなのー!パリ!今、パリ!そー博敏ひろとしと二人っきり!ついにこの時が来たかーって感じ。だってもう三年だよ、付き合って。ちょうどいい頃でしょ?ううん、パリ旅行は一年前から計画してたから、たまたまこのタイミングだと思う。っていうかパリ旅行があるから、言う気になったのかも。うん、なんかねー、いつもと様子が違うから絶対に今日だと思う。悪いねー、由花ゆか。私、あんたより先に次のステージに行ってくる!スタジオの専属ピアニストにも選ばれたし、人生、順調順調!由花はさぁ、いい人いないの?え?いるの!?聞いてないよ、何で言ってくれなかったのー。…訳ありって、まさか不倫じゃないでしょうね?」

電話で盛り上がっているひとみに気を使いながら宮下みやした博敏ひろとしが部屋に入ってくる。瞳と目が合った博敏は左手を優しく前に出して、いいよ、いいよ、と合図を送ったが、瞳は「あ、じゃあ、また、後でねー」と携帯電話を切った。

「ごめん。電話してた?」
「ううん。大丈夫。ひっさしぶりにいっぱい歩いたから、疲れちゃったね」
「うん」
「パンレット見て知ったんだけ、この部屋って、凱旋門とエッフェル塔とルーブル博物館とノ
ートルダム寺院が横一列に等間隔に見えるんだって!知ってた?」
「ん?うん」
「やっぱり知っててこのホテルにしたんだ!シャンゼリゼ通りにさぁ、韓国料理のお店があったでしょ?」
「あったか?そんなの」
「あったよ。パリまで来て、わざわざ韓国料理を食べる人なんているのかな?あ!そうか長期滞在者なら、たまには食べたくなるかもしれないね。でもパリ初日で、いきなり韓国料理屋さんにつれて来られたら、ブチ切れるかも。私。…ありがとね。今日のディナー、美味しかっよ」
「それは、良かった」

なんだか、今日の博敏ひろとしは口数少なく緊張してる。可愛いヤツ。とひとみは思っている。

「…そう言えばホテルのエントランスでラリー・カールトンが流れてたでしょ?」
「そうだった?」
「流れてたよ。『夜の彷徨い』いい曲だよね。ラリー・カールトン。二人で良く聴いてたから懐かしい気持ちになっちゃた」

普段から良く喋る瞳だが今日はいつも以上によく喋る。博敏の緊張をほぐそうとしているかの様に。

「ギターは主旋律と和音を同時に弾けるてピアノに似てるから好きだ。特にラリー・カールトンの音色には弦、一本一本に魂が入ってる。って言ってたじゃない」
「そんな偉そうな事、言ったのか。俺」
「それまでギターの事そういう気持ちで聴いた事なかったけど、あの言葉を聞いてからだよ色んな人の色んなギターの曲を聴いたのは。それからだもん、私のピアノの腕が上がったのは」
「そんな事はないよ。もともと才能があったんだよ。お前には………」

博敏、相当緊張してるなー。瞳はそう思いながら気づかないフリを続けている。

「瞳」
「はい」
「…いや、何でもない」
「えーーー!ちょっと待って!勇気を持って!大丈夫!大丈夫だから!」
「何?どうしたの?」
「言いたい事があるんでしょ?私に。大丈夫。言ってごらん!さ!さ!さ!」
「瞳」
「はい」
「俺」
「はい」
「独立しようと思ってるんだ」
「はい?」

独立?思ってもいなかった単語が出てきて瞳は戸惑った。

「今の会社やめて、フリーのピアノ調律師としてやっていこうと思ってる」
「会社辞めて?独立?」
「うん。出資してくれるって人が現れて」
「出資?どんな人?知り合い?」
「ほら、この間、白石しらいし先生の文化賞受賞パーティーに出席したって話だろ?社長の代理で」
「うん」
「そこで会った人なんだけ」
「ちょっと待って。知り合いじゃないの?」
「今はもう、知り合いだよ。その人、フリーライターをしていて、ピアノ調律師について色々と取材をしていたみたいで。で、たまたまウチの会社が白石しらいし先生の孫のピアノを調律してるって知ってさ。ちょっとだけ取材を受けて。それから、ちょくちょく会うようになって」

さっきまでの甘い鼓動が不安に変わっていくのを瞳は感じた。

「ちょっと待ってよ。受賞パーティーって半年くらい前でしょ?そんな話、聞いてないよ」
「だから今、言ってるんだよ。ミヤケさん、って云うんだけど、そのミヤケさんが「ピアノ調律師は独立したほうが絶対にいい」って言うんだ。この業界って斜陽産業だろ?ピアノ自体も、どんどん売れなくなってるし。俺、調律師として今の会社に入ったのに、やってる仕事はピアノの売り込み営業ばかりだし。それに、またに調律の仕事が入っても時間をかけて直してあげる事が出来ないんだよ、今の会社じゃ。手間をかければ直るピアノでも、新しいものを買った方がいい、って勧めなきゃいけないんだ。ピアノが好きでこの世界に入ったのに、なんでまだ生きているピアノに死刑宣告しなきゃならないんだよ。イギリスではピアノ調律師は、ほとんどが独立してて、フランチャイズ化してて、もう直ぐ日本でも展開するらしくて、その費用として300万円」

瞳はあからさまに暗い顔をしている。博敏は気づかないフリをして話を続けていたが、ついに失速した。

「300万……必要なんだけど…ちょっと資金が足りなくて…」
「………大丈夫なの?その人」
「大丈夫って、どういう意味?反対なら反対って言えよ」
「そうじゃないけど…。今の仕事、大変なのは分かるよ」
「今の給料じゃ、結婚も無理だよ」
今のままでは結婚は無理。瞳はそんなことは思っては居なかった。博敏がそう思っていた事を知って瞳は悲しい気持ちになった。

「ごめん。こんな雰囲気で言うことじゃないけど、俺はお前と。だけど、今のままじゃ、ダメなんだ。何かしなきゃ」
「大丈夫だよ、博敏。私、スタジオの専属ピアニストに選ばれたの」
「……そうか。おめでとう。凄いじゃないか。やっぱり、お前は凄いな」
「だから、お金の事は大丈夫。心配しないで」
「え?」
「今よりも、給料あがるから!博敏は、なんにも心配しなくてもいいよ」

瞳のその言葉を聞いて博敏は微笑んだ。博敏の顔に笑みが浮かんだので瞳は安心した。だが、その微笑みの源は悲しみと悔しさと自分への憐れみから流れてきた微笑みだった。

「…お前がグランドピアノなら俺はただのチューニングハンマーってことか」
「え?」
「俺はお前に生かされている。ってことだろ」
「違う、違うよ」
「悪い。先に寝てていいよ」
「ちょっと!博敏!」

お前がグランドピアノなら俺はチューニングハンマー。その言葉を残して博敏は出て行った。本革のソファに倒れ込んだ瞳は、確かにそうだと思った。私がグランドピアノなら博敏はチューニングハンマーだ。彼がいなければ私は狂ってしまう。調律しなければピアノの音程が狂ってしまうように。彼がいるから、私は私でいられるのに……。

それは…それは突然の嵐のような出来事だった。


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