あの日渡せなかった言葉

 シャワーから出て部屋着を着ると、ちょうどスマホが通知音をならした。見るとあゆかからメッセージが届いている。
『家、帰ったよー』
 俺は早速返信した。
『おかえり』
『なにそれ』
『だって帰ってきたんでしょ』
『ここにいない人が言うのおかしいでしょ』
 最近お気に入りのアニメキャラが驚愕しているスタンプを挟み、さらに返信。
『いや、でも俺の家なんだし』
『それでも。今いないじゃん』
『そこ重要?』
『重要って言うか、いないのに変』
『じゃあなんて言えばいいの?』
『お疲れ様、とか?』
 おおそうか。
 そう思って早速さっきと同じキャラが「おつかれ様」と言っているスタンプを送る。
『今さら笑 でもありがと』
『いやいや』
『のぶさんもおつかれさま。着くなり仕事だったんでしょ』
『そうだけど、早く終わったから。さくっと飯食ってからずっとホテルでだらだらしてた』
『なに食べたの?』
『牛丼』
『えー。せっかく関西行ったのに?』
『いいじゃん別に。一人だし、考えるのめんどくさいし』
『まったく、相変わらずだなー』
『うまいもんはあゆと一緒の時に食うよ』
『じゃあこれから行っちゃおうかな笑』
『おいでー』
 なんでやねん、というスタンプ。そっちが言ったんだろと打ちかけてる間に、
『あ、お風呂沸いた』
『おう、入っといで。俺は寝ちゃうかも』
『うん。じゃあまた明日』
『おう。明日は直帰だから。午後には帰るよ。飯作っておく』
『疲れてるだろうから無理しないでね』
『うん、ありがとう。おやすみ』
『おやすみー』
 しばらく様子を見ていたがそれ以上メッセージが来る様子はなく、俺はスマホを置いてベッドに身を投げ出す。
 あゆと結婚して十数年。子供はできなかったが、夫婦仲は良好。二人の時間を大事にしてきたのももちろんあるし、逆に二人ともフルタイムで働いていて、それぞれの時間を持てるのも大きいんだろうと思う。
 それに……
 俺たちには、取り返さなければならない時間があったのだ。

 俺とあゆは、中学一年の時の同級生だった。委員会活動をきっかけによく話すようになり、何度かお互いに誘い合って、動物園だの映画だのに出かけた。
 ある日、あゆが一冊のノートを俺に手渡した。
「なにこれ?」
「うーんと、なんとなく。思ったこととか、家であったこととか書いた」
「ふーん」
「のぶくんもよかったらなんか書いて戻して」
「……わかった」
 交換日記、ってやつじゃん、と思ったが、口には出さなかった。アナログ時代の奥ゆかしい文化。仲のいい女子同士やグループでやる場合もあったようだが、男女となるとこれはもうほぼ一〇〇%恋人同士の間でやり取りするものだという認識だった。
 だからその名を口に出すことができなかったのだ。恥ずかしかったし、これまで二人ともなにひとつ決定的なことを言っていないのに、それが「交換日記」だと認めるのは順序が違う気がした。
 あゆも、似たようなことを考えていたんだろうと思う。俺たちは二人とも「交換日記」と言う名前は言わないまま、こっそりノートのやり取りを続けた。
 あゆの丸っこい字やなんてことはない日常を読むのはちょっと楽しかったし、紙の上でなら、普段よりちょっとカッコがつけられるような気がした。実際「のぶくんここだとかっこいいこと言うね」なんて返事が返ってきて、俺は舞い上がって、精一杯背伸びしたあれこれをノートの上に書き散らした。
 今読んだら相当痛いんだろうな……
 わずかに覚えているフレーズを思い浮かべるだけでものたうちまわりたくなるほど恥ずかしい。
 しかし当時は、それがあゆにアピールできると思ってやっていたのだ。
 いや、意識してやってたわけではない。だが思い返すと、俺はやっぱり、明らかに、あゆの気を引きたがっていたし、つまりあゆのことが好きだったのだ。
 それに気がつかされたのは、2年生に進級したその日のこと。
 新しいクラスを発表する掲示のどこにも、あゆの名前はなかった。何度も、何度も念入りに確認した。
 あちこち聞いて回って、俺は春休みのうちにあゆが遠くに引っ越してしまったことを知った。

 大学に同姓同名の女子がいるのを知り、それが本人だと分かった時、驚きはしたけれども、正直、運命だとかそんなふうには思えなかった。あのあと、高校に入学し、卒業するまでの四年間と、大学であゆに気づくまでの2年余り、俺だってそれなりに色々な経験をしてきていたし、その時だって恋人がいた。ただ、あのころの、恋愛未満とでも言うような甘酸っぱい気持ちを思い出し、少しだけ胸が疼いた。
 あゆのほうはどうだったのかわからない。その頃は誰とも付き合っていなかったようだが、まあそれなりに色々あったという話は聞いた。
 再会の驚きの勢いで交換した連絡先にも、ほとんど何の連絡もないままだった。誕生日にメッセージをくれた時には、覚えててくれたのかとちょっと感激はした。考えてみると俺の方でもしっかり覚えていたので、彼女の誕生日にはこちらからもメッセージを送った。
 いつからだったろう。ぽつりぽつりとメッセージのやり取りが増え始めたのは。
 俺が恋人と別れたころだろうか。いや、だがそれでもこちらからいきなり連絡を取ったりはしなかったはずだ。
 俺たちは、かつての日々をなぞるように、少しずつ、恐る恐る距離をつめていった。初めてデートらしきことをしたのは大学を卒業してから。
 だがそこからの展開は早かった。
 二度目のデートで告白をし、三度目にはお泊まり。そこから結婚までは二年。
 あの時中途半端に途切れてから再会するまでの時間で起こるはずだったあれこれを圧縮し、その後辿り着くはずだったところまで早く追いつきたい、そんな焦りすら感じるようなスピード感だった。 
 そしてすっかり中年になった今でも、会えずにいた時間を埋めるように、俺たちは仲睦まじく暮らしている。
 
「ただいまー」
 誰もいないと知っていながら、何となくそう言いながら家に上がる。
 まずは楽な格好に着替え、それから荷解き。と言っても一泊の出張だ。ほとんどは衣類。
 まだ明るいし、一回洗濯しておこうかな。
 そう思って汚れ物を手に洗濯機へ向かいかけた時、居間のテーブルに一冊のノートがあるのに気がついた。
「これ……」
 みまごうはずもない。
 あの頃、あゆとやりとりしていた、あの……交換日記。
「まだあったのかよ」
 俺は思わず衣類の袋をその場に置いて、そのノートを手に取った。
 ぱらぱらとめくる。あのころのあゆと俺の、ぎこちない文字と文章。
 ほとんど忘れているつもりだったが、読んでみると当時の記憶が立ち上がってくる。
 あゆの言葉も、自分の文章も。
 懐かしいし、思った以上に、痛い。
「うわ、俺、こんなこと書いてやがる」
 もう笑い飛ばすしかないくらい恥ずかしい。そして。
 最後のページで俺は手を止めた。唯一、見た覚えのない文章。当時俺に渡されないままだった言葉。
 そこには、親の都合で突然転校することになた戸惑いと、怒りと、悲しみが綴られていた。
『電話とかしたいけど……怖くてできない。どうしたらいいかわからない。
 のぶくんに会えなくなるの、やだよ。
 最後に会いたいけど、会ったらちゃんとお別れできる自信ない。
 休み明けたら、びっくりしちゃうよね。怒るかな。少しは寂しいって思ってくれるかな。
 悲しませたくない。怒られるのも怖い。どうしたらいいんだろ。
 こんなこと書いたって、連絡取らなきゃ、渡すこともできないのに。あたし、ばかみたいだ。
 まだなにも言ってないのにね。
 好きだって、言えてないのに』
 胸が痛い。
 転校してしまった時のことを、俺はちゃんと聞いてみたことがなかった。
 何度でも聞く機会はあったはずだ。再会してすぐに聞いても良かったし、付き合い始めた時だって良かった。でも、聞けなかった。
 怖かったからだ。あの時連絡をくれなかったのはなぜなのか。一体どんな気持ちで、遠くに行ってしまったのか。
 あのころ淡い恋心を感じていたのは自分だけだったのか。あゆにとっては、ほんの気まぐれだったのか。
 それを知って、大切にしてきた自分の思い出が壊れるのが怖かったのだ。
 だが、そうじゃなかった。
 そう、俺はあの時怒ったし、寂しかったし、悲しかった。
 もう会えないんだ、そう思って、目の前が真っ暗になったような気がしていた。
 そんなあゆとまた会えた、そして今もこうしてお互いを大切にできている。
 これは奇跡だ。
 かたん、と音がした。
 振り返ると、手洗いからあゆが出てきたところだった。
「おかえりー。びっくりした? じつは半休取っちゃって……あっ、それ」
 言うが早いか駆け寄ってきて、ノートをひったくり、胸に抱きしめた。
「……見た? ……よね?」
 顔を真っ赤にして聴くあゆに頷く。あゆは顔を伏せた。
「あーっ、しまっとくの忘れるとか! あたしのばか!」
「それ、ずっと持ってたんだな」
「うん……時々眺めて身悶えしてはニヤニヤしてた……昨日もさ、のぶくんいないし、何となく眺めてたら、無性に会いたくなって、それで今日半休とることにして……何で片付けてないかなあ」
「隠さなくてもいいじゃん」
「だって……」
「貸して」
「えー」
「いいから。どうせもう読んじゃったし」
 しぶしぶ差し出されたノートを受け取って、俺はボールペンを取り出す。そして、彼女の最後の言葉の下に、こう書き足した。
『俺も、好きだよ』
「……なにキザなことしてんのよ。いいおっさんが」
「うるさい、あゆこそいいおばはんがこんなもの後生大事にとっときやがって」
 照れながら答える。
「それもそっか」
 あゆはそう言って、自分も赤い顔をしながら笑う。俺も笑う。
 あの日の喪失感が、今こそ本当に、うまったような気がした。

 

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