産みの苦しみ

 チェーンのスーパーマーケットやファストフード店に混じって個人経営のお好み焼き屋やラーメン屋、雑貨屋などが立ち並ぶ郊外の商店街を抜けた先、小さな公園の脇にいささか唐突に、そのマンションは立っていた。タワーマンションというほどの高さがあるわけではないが、他に目立つ建物のないこの場所では十分塔のようである。私はエントランスに入り、インターホンを操作した。
 程なく、低い声が聞こえる。
「はい」
「あ、佐栁先生。近藤です」
「……どうぞ」
 いうとほぼ同時に自動ドアが開き、私はマンションの内部に足を踏み入れた。

 佐栁康臣。本が売れないと言われるこの時代には稀有と言っていい、売れっ子作家だ。古風とすら言える重厚な言葉遣いを多用しながらも、独特のリズムと砕けた会話文によって読みやすさを保ち、エンタメ性のあるストーリーと鋭く社会に切り込むテーマを両立させ、一見類型的な登場人物にリアルな人間性の深みを忍ばせる彼の作品は、読書慣れしていないものからも年季の入った本好きからも高い評価を得ており、読書人口そのものを増やしたとさえ言われていた。
 もう一つ、彼の特徴を挙げるとすれば、それは多作であるということだ。五年前一般文芸誌の新人賞でデビューし、その二年後に名だたる文芸賞を受賞して以来、彼は凄まじい勢いで作品を世に送り出していた。なのに作品のクオリティは落ちるどころかますますその鮮烈さを増しており、人気は高まる一方。そこまで話題になると所謂アンチも目立つようにはなってくるが、全体として売れていることには何の違いもない。佐栁康臣は、低迷する出版業界の救世主のような存在だったのだ。
 そんな佐栁先生の執筆がぴたりと止まって、半年ほどの時が流れていた。
 まだ一般の読者が大きく騒ぎ立ててはいない。わずかに、予告されていた新刊の出版が遅れたことが話題になっているくらい。
 だが、私たちのような出版業界に身を置くものにとっては、すでにこれはちょっとした事件と言って良かった。特に、新人賞の頃から担当としてその仕事ぶりを目の当たりにしてきた、この私のようなものにとっては。
 部屋の玄関前に立ち、ドアホンを鳴らす。
『近藤さん、開いてますから、どうぞ』
 そんな声が聞こえ、言われた通りにドアを開けて部屋の中へ。
「こんにちは。お邪魔します」
 靴を揃え、廊下に足を踏み出す。
「いらっしゃい」
 奥の方から声が聞こえる。パソコンの置いてある仕事部屋ではなく、リビングの方だ。私はそちらに向かった。
「お邪魔します」
 再び言いながらリビングに顔を覗かせると、佐栁先生はソファー前のテーブルにお茶を出しているところだった。カジュアルなシャツにジーンズ。いつも通りの気取らない格好に少しホッとする。
「ああ、すみません、ちょうどこいつを運んでいたものですから」
 先生はそう言ってお盆を小脇に抱え、そそくさとキッチンへと向かった。
「お気遣いすみません」
「いえいえ、まあ、どうぞ」
 お盆を置いてきた先生が、自分も腰を下ろす。私は軽く一礼し、先生の向かい側に座った。
「わざわざすみませんね、こんな郊外まで」
「いえ、これも仕事ですから……いただきます」
 そう言って湯気をたてる煎茶を一口いただき、意を決して切り出す。
「で、先生、電話で伺ったお話ですが」
「ああ、うん」
 先生はどこか芝居がかった軽薄さで頷いた。
「もう、書きません。こういう言い方が正しければ、引退、ということになります」
「何か、あったのでしょうか?」
 私は身を乗り出す。
「半年前には、まだまだ書きたいものがたくさんある、とおっしゃっていたのに」
「いや、そんな……ただ、書けなくなったんですよ。才能が、枯れたんです」
「そんなわけないですよね」
 私は食い下がる。
「いえ、ご本人が言っている以上、認めるべきなのかもしれませんが……でも、やにわには信じられません。これでも長年編集者として多くの作家さんを見てきました。書けなくなる人って、何となくわかるんです。仕事のペースの変化、私生活の様子、そんなものもありますけど、何より、書いていらっしゃるものが……例えば、どんなにすばあらしい作品でも、背後から、悲鳴が聞こえてくるような作品があります。もうだめだ、これ以上は無理だって。あるいは、一見それまでとは変わらないのに、勢いを失いつつあるのがわかってしまったり。逆に、それまでとは全然違う傑作を爆発的な勢いで描いてしまった作家さんも、それ以後沈黙してしまうことが多いです。けれども先生が書かなくなるまでの作品に、そんな様子は少しもありませんでした。私には、先生が、書けなくなったのではなく、意図して書かなくなったようにしかみえないのです」
「近藤さんにそう言われると、否定はしづらいですね」
 佐栁先生はそう言って、自ら入れたお茶を一口飲んだ。
「お話いただけませんか」
 私はなおも詰め寄る、先生はじっと私の顔を見て、それから徐に、話し始めた。
「近藤さん、去年の暮れ頃にあった事件、覚えていませんか。鳥取の狂言誘拐事件」
「もちろん覚えてます」
 私は頷いた。誘拐事件の被害者と思われていた女子大生が、実は全てを計画し指示していた張本人であり、誘拐を偽装する背後で大規模なテロを目論んでいたというあの事件だ。その衝撃的な内容自体、記憶にとどまるに足るものだが、その成り行きと真相が、佐栁先生が出版したばかりの小説『鏡像の宴』とあまりにも似通っていたことで一生忘れられない事件となった。
「まさか、ご自身の作品が悪影響を与えたと思ってらっしゃるんですか? それはないでしょう。だってあの本が出版されたのは事件の真相が明らかになる3日前で、あの事件は明らかにそれ以前から計画されていたんですから」
「わかっています。でもそういうことじゃないんです」
 佐栁先生は首を振る。
「実は、以前から考えていたんです。自分の作品と同じことが起こることが、あまりにも多いと。たとえば『輝く混沌』と日本アルプス夫婦遭難事件。『代償なんて怖くない』とアイドルグループ山の手ローテーションのデビュー。『イカを干す』とネオカーボノイドの開発」
「それは、確かに一部の読者も指摘していたことですし、中にはオカルトめいた陰謀論を唱える人もいたようですが。しかし、普通に考えて、単なる偶然ですよ。それをとっても、お互いに影響を与えられるような時間関係にない」
「そうでしょうか」
 佐栁先生は目を伏せて言う。
「実は、執筆をやめるその時まで、取り掛かっていた作品があるのですが……頻発する超常現象の謎を追ううちに、より大きな存在へと主人公がたどり着く、という話なんです」
 私は頷いた。その作品の構想は以前にも伺ったことがある。
「それが……実際に描き始めてみると。起きたんです」
「起きた?」
「はい。つまり、そこに描いた超常現象が」
 曰く、割れたはずの皿が翌日何事もなかったかのように戸棚に戻っていた。
 曰く、作業をする前と後で時間が変わらなかった。
 曰く、買い物をしていたと思ったら次の瞬間自室にいた。
 などなど……
「それは……」
 偶然と言えそうなものもあった。だが……
「実は、完成間近まで書いていたんですが……その頃からさらに、奇妙なものを見るようになって」
「奇妙なもの、とは」
「光、ですね。あるいは光り輝く人の姿」
「……」
「夢じゃありません。昼日中、起きている時に、不意にそれは現れるんです。天使も見ました。妙なる声で歌いながら、何かを祝福するように、花びらを撒き散らす天使たち。ねえ近藤さん、私は精神科に行った方がいいと思いますか。でも、書きかけの作品を破棄したら、一切何も起こらなくなったんです」
「どちらにしろ、一度休んだ方がいいのかもしれないですね」
 私はやっとのことで言った。
「書くのをやめて見えなくなったんだとしたら、それは作品を生み出す上でのストレスが生んだ一過性の症状なのかもしれません」
「そう……ですね、そういう考え方もできるでしょうね」
 先生は言った。
「でも、どうしても考えてしまうんです。この、僕の……作品に書いたことが現実にも起こっている、というのが正しいとしたら、それは何に由来するんだろうって。最後に書いた作品は、超常現象の背後に神がその恐るべき姿を明らかにする物語です。そして……『光あれ、神は最初に言った、すると光があった』。言葉が現実になるのは神の力です。僕が神? いやまさか。だったら、この力は……神が、自らを実現させるために、僕に与えたものではないでしょうか。あの天使たちは、その時が……神の誕生が近いことを祝って、僕の元に現れたのではないでしょうか」
「そんな、まさか」
「いえ……忘れてください。たぶん、近藤さんのいう通りです。私は一種の……ノイローゼみたいなものになりかけているんでしょう。とにかく、一度は、書くこと自体から遠ざかるのを、ご了承ください」
「……わかりました」
 私は頷いた。
 
 帰り道、駅に向かう道すがら、私は佐栁先生の言ったことについて考えていた。
 やがて現れるものが、自らの実在のために干渉する? そんなバカな。辻褄が合わないではないか。
 だが……可能性が現実になる、というのは、もしかしたら、そのようなことではないのか。
 それが不可能ならば、人はどうして、今日とは違う自分になろうとすることができるのか。
「神の、自己実現か」
 口に出すと奇妙に軽くて、笑ってしまう。
 いずれにせよ、私には、言葉を現実にする才能などはなさそうだった。
 

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