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満足

 部屋の中だ。花模様の壁紙と、広い窓。無機質なテーブルを挟んで向かい合わせに置かれたパイプ椅子。その片方に老人が一人座っている。見たところ、健康そうだ。シワが寄った顔はまだ命の温度を感じさせる血色を保っており、姿勢もしゃんとしている。だがその表情には、どこか不穏なゆらめきがあった。何もすることがないまま、何かを待っている風ではあったが、それにしてもうつろだ。あちこちを見ると言うこともないまま、近く遠く、焦点の定まらない目。目的なく半開きにされたままの唇。時折何かを見つけたように引き締まった顔を見せるものの、その煌めきは一瞬のうちに遠のいてしまう。
 不意にドアが開き、一人の男性が現れた。だが老人の表情は動くことがない。ドアが開いたことすら気がついていない様子だ。
「山田さん」
 男性は老人に向かって言った。
「お客様をお連れしましたよ。どうぞ、入ってください」
 続けて、若い女性が一人室内に入ってくる。彼女は男に勧められ、老人の向かいの椅子に腰を下ろした。そのとき、老人の表情に変化が訪れた。
 落ち着かなく揺らめいていた目が女性の上に留まり、そのうちに光が灯る。
「花子……」
 その口から、声がもれた。女性はにっこり笑って言う。
「太郎さん」
 男性はその様子を見て、満足げに頷くと、「ごゆっくり」と声をかけて部屋をでていった。
「花子」
 老人は繰り返し、花子と呼ばれた女性は微笑む。
「なあに、あなた」
「なんだか……長い夢を見ていたみたいだ。花子と、ずっと会っていなかったような」
「何いってるの? あたしはここにいるじゃない」
「そうだな……そうだ。だが」
「なあに?」
「その……バカな話なんだが、君が……花子が……いなくなってしまった、そんな夢を見てたみたいなんだ、俺は」
「なにそれ」
 花子はコロコロと笑う。
「うん、そうだね」
 老人、太郎もつられたように顔を綻ばせた。
「本当に、変な話だよ。君が……結婚してから、ほんの三ヶ月で、あんな……」
「夢よ」
 花子は言った。
「おかしな夢。だって、ほら」
 両手を広げてみせる。
「あたしはここにいるわ。今までも、これからも」
「あ、ああ……」
 太郎はしばし、物思いに沈んだ。
「本当に、ひどい夢だった……。幸せな結婚生活が、あんな……あんな男に、断ち切られ、めちゃくちゃにされて……」
「もう、わすれましょ?」
「うん、でも……聞いてくれ、俺は、あの男に……正当な報いを受けさせるために、長い間……マスコミに訴え、署名活動をして、君の、仇をとろうと……」
「ありがとう。夢の中でも、あたしのために」
「君のため?……いや、違う。俺のためだよ。俺は……耐えられなかった。君がいないことに。君に二度と会えない、そのことから目を背け、逃げ出すために、俺は何かせずにはいられなかった。だから……全てが終わったとき、俺は……もう、何もかも……」
「いいのよ、もう。大丈夫だから」
「ああ……本当なのか、これは。本当に、君なのか? 本当に、全部夢だったのか?」
「ええ。あたしはここにいるわ」
「ああ……手を、握ってくれ」
 差し出された手を、花子が握る。太郎はそれをじっと見つめた。シワに覆われた自分の手と、白く艶やかな花子の手。
「……違う」
 太郎は言い、花子は怪訝そうにその顔を見上げた。
「違わないわ。あたしは花子。あなたの奥さんよ」
「そう、なのかもしれない。だが……」
 太郎は言葉を探す。その目の光を、また遠く近くゆらめかせながら。
「この、記憶は……ただの夢なんかじゃない」
「じゃあ、あたしは誰だって言うの」
「それは……」
 太郎は言い淀む。その顔が苦悩に歪む。
「わからない、どういうことなのか、俺にはわからない、けれども……君が、もし、あんなひどい目にあわずにすんだのだとすれば……君に、明るい未来があるのだとしたら……君は、こんな記憶を持った俺のそばになんか、いるべきじゃないんだと、思う」
「そんな、だって、あたし、あなたの」
「ちがう、君が幸せに生きているのだとすれば、君のそばにいるべきなのは……俺だとしても、その幸せを共有している俺だ。それはこの俺じゃない。俺じゃないんだ」
「……」
「だから……さあ、もう、帰ってくれ。幸せで、あり続けるために」

「ダメだったか」
 男は一人戻ってきたアンドロイドの電源を落としてつぶやいた。
 終末期ケアの一環として、辛い記憶に囚われた患者に慰めを与える試み。多くの成功例もあるものの、まだ適切な関わり方は確立されず、かえって批判も多い。
 ほとんどの時間を朦朧として過ごし、時折意識が戻ると、辛い記憶に囚われ苦悩し、時には暴れる、そんな太郎を、失われた妻がまだ生きているという嘘で慰め、残された時間を心穏やかに過ごしてもらおう、と言う計画だったのだが。
「奥さんだと信じてはいたみたいなのにな。あんなふうに考えるなんて。一緒にいられるほうがいいだろうに」
 モニターには、看護師に連れ去られる太郎が写っている。
 それを見ていた女性スタッフが、不思議そうに言った。
「でも、なんでだろう、あの人……この子が部屋を出た直後、一瞬、ものすごく幸せそうに笑ったのよ。まるで……ずっと心にかかっていた望みを、ついに成し遂げたみたいに」

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